太田述正コラム#0010
印パのにらみあい(その2)
ところで、私自身は、当初から印パが本格的な軍事衝突に至る可能性は殆どないと見ていました。その理由は沢山ありますが、その最大の理由の一つがパキスタンのムシャラフ大統領の存在です。
ムシャラフは1943年にデリーに生まれます。彼が両親とともにパキスタンのカラチに移住するのは、印パがイギリスから独立すると同時に分かれた1949年ですから、彼は印パ両国が同じイギリス領インドであった時代の記憶がある最後の世代に属します。私は、かねてより、彼が、インドとの旧同胞意識に立って和解を行いうるのは自分しかないという使命感を抱いていると推察しています。
それに加えて父はパキスタン政府の外交官、母は国際労働機関(ILO)勤務という国際色豊かな家庭に育ち、また、6歳頃から13歳頃までの7年間を父の赴任先であったトルコ(イスラム教国だが徹底的な世俗主義の国)で過ごしたことから、彼は、欧米的な国際常識を身につけており、腐敗やイスラム原理主義、あるいは排外的ナショナリズムに対し厳しい見方をしていると考えられます。
彼のこの国際常識は、彼の准将時代の旧宗主国たるイギリスの国防大学校(Royal College of Defence Studies)への一年間の留学で磨きをかけられます。(私も1988年に同じ大学校に留学しており、ムシャラフとは同窓生ということになります。私の同期生のアッバース・ハタクは後にパキスタンの空軍参謀総長になりました。現在は退役していますが・・。)
そして、当然のことながら、彼が軍人であることを忘れてはなりません。パキスタン軍とインド軍は、旧イギリス領インド軍のうり二つの後継組織であり、イギリス流の近代主義・合理主義の権化です。特にパキスタンでは、軍に優秀な人材が集まり、国政全般ににらみをきかせてきた伝統があります。ムシャラフは、このパキスタン軍によって育まれた軍エリートなのです。
(以上の事実関係は、 http://www.pak.gov.pk/public/chief/ce_profile.htm による。)
この背景を頭の中に入れた上で、ムシャラフの最近の言動を追ってみましょう。
まず、1999年のカシミールのカーギル紛争でパキスタン軍が休戦ラインを越えて作戦を展開し、印パ間で全面戦争の危険が生じた時に、彼が陸軍参謀総長兼統合参謀会議議長であったことをどう考えるかです。これは、腐敗しきったシャリフ政権に既に見切りをつけていたムシャラフが、カシミール解放を錦の御旗とするパキスタン国民内、とりわけ軍部内での彼の信望を盤石なものとすべく、不本意ながらシャリフ首相の命令に従って軍を運用したものと解すべきでしょう。米国等の圧力にシャリフがひるみ、なすところなくパキスタンが兵を引いた後、軍部内の不穏な動きに先手をとってシャリフがムシャラフ解任を試みたとき、満を持していたムシャラフは、逆にクーデターを起こしてシャリフ政権を葬り去ります。
権力を握ったムシャラフは、近代トルコの祖、ケマル・アタチュルクを褒め称える発言を繰り返し、イスラム原理主義に傾斜しつつあったパキスタンの軌道修正を図る意志を暗に明らかにします。もっとも、かかる発言を続けることの危険性を察知した彼は、しばらくするとこの種発言を差し控えます。
昨年9月の同時多発テロの生起はムシャラフに千載一遇の機会を与えました。彼は、本来穏健な国家を人質に取る手口のテロリストの活動を激しく非難します。これは直接的にはアフガニスタンとオサマ・ビン・ラディン一派のことを言っているのですが、暗にパキスタンとの関係でパキスタン内外でのテロリストの活動を非難したものです。
そして、12月のインド国会襲撃事件では、これを聞いて激怒したと伝えられています。
(権力奪取直後、同時多発テロ発生時、そしてインド国会襲撃事件時のムシャラフ発言はhttp://www.guardian.co.uk/kashmir/Story/0,2763,626986,00.html による。)
百戦錬磨のインドのバジパイ首相は、以上のようなことは百も承知でしょう。
そこで、同首相は、SAARCの機会を利用し、積極的にムシャラフ大統領に歩み寄り、「激励」したのだと私は見ているのです。(続く)