太田述正コラム#4558(2011.2.13)
<日英同盟をめぐって(続)(その12)>(2011.5.8公開)
 「フィリップス大将と<プリンス・オブ・ウェールズ艦長の>ジョン・リーチ(John Leach)大佐は彼らの艦と運命を共にした。・・・レパルス<艦長>のウィリアム・G・テナント(William G. Tennant)大佐は・・・救出された。」(J)
 「<プリンス・オブ・ウェールズの司令官艦橋ではなく、より眺望がきく艦長艦橋に立っていたフィリップスは、「こんなことになったのに生き残るわけにはいかない」とつぶやき、救援のために到着した駆逐艦が、乗り移られたいと信号を送ったのに対し、「ノー・サンキュー」と言い、脇に立っていたリーチ艦長と二人でこの駆逐艦に向かって敬礼をした後、艦にまだ残っていた乗員に向かって笑みを浮かべつつ退去せよと手で促しつつ、海に飲み込まれて行った。>」(L)
 「53歳で彼が亡くなった時点で、彼は英海軍の最も若い大将であり、かつ、最も若い司令長官の一人だった。
 フィリップスは、第二次世界大戦<の全期間>中、戦死した、連合国の最も高い地位の将校となった。」(K。PP475~476)
 Lの著者達は、PP475~484で、概要、以下↓
 日本軍機は、残余の駆逐艦も、また、退去、避難する乗員達や海上で救助を待っていた乗員達を攻撃しようとはしなかったし、日本海軍は、フィリップスの死に感動を示した。
のように記した上で、概要、以下↓のように、フィリップスは職務放棄をした、と記しています。
 さて、プリンス・オブ・ウェールズという最新鋭の戦艦の艦長の死も惜しまれるが、フィリップスの死は惜しまれるどころではない。彼は死んではいけなかったのだ。
 彼が、主要艦2隻の喪失に対する自責の念にかられたのは実によく理解できるけれど、海軍大将の任務は、彼が率いる艦隊(fleet)や小艦隊(squadron)に対するものであって、自分が乗艦している旗艦が無能力になったとしても、残余の戦闘能力ある航行可能な艦艇のどれかに旗とともに自分が移乗して、引き続き指揮を執るべきなのだ。
 (艦を無能力化させないようにあらゆる手立てを尽くし、乗員の退去を確認するまで最後まで艦にとどまらなければならないのは艦長だけだ。
 この場合、艦長は、乗艦しているフィリップスの退去も促さなければならなかったのだ。
 第一次世界大戦中も第二次世界大戦中も、英海軍の旗艦の艦長は、プリンス・オブ・ウェールズの艦長を除き、全員、まさにそのように行動している。)
 それに、フィリップスは、単にZ部隊の司令官であっただけでなく、英東洋艦隊の司令長官だった。
 これは、第二次世界大戦中、英海軍の艦隊司令長官が戦闘目的で海上に出た唯一のケースであったところ、彼には、東洋艦隊の司令長官として、陸上で、マレーとシンガポールの防衛のために英海軍を代表してやらなければならないことが一杯まだあったはずだ。
 –補遺3:チャーチルの大英帝国を過早に崩壊させた責任–
 「<チャーチルは、「>第二次世界大戦中、私はこれ以上の直接的衝撃を受けたことはない…。
 ベッドの中で寝返りをうったり体をくねらせたりしながら、この知らせがいかに恐るべきことかが私を苛んだ。
 真珠湾で生き残った米艦・・それもカリフォルニアに向けて<の逃走に>大わらわだった・・以外には英米の艦艇はインド洋と太平洋には存在しなかった。
 この巨大な海域全般にわたって日本が至上の存在となっており、我々はどこでも弱く丸裸だった。<」と記している。>」(J)
 そして、既に記したように、シンガポールが陥落した時にも、チャーチルは悲痛な叫びをあげています。
 以上から言えるのは、チャーチルの責任は、単に米国に手を回して日本を対米英開戦に追い込んだ政治的責任にとどまらない、ということです。
 彼は、英陸軍士官学校出の歴戦の勇士であるとともに、第一次世界大戦の時の海相であり、第二次世界大戦が勃発した時、またも海相に起用され、その後、首相になったのですから、(陸軍の伍長までの経験しかなかった)ヒットラーや、(海軍に通じていなかったところの陸軍大将であった)東條以上の軍事通であったと言えそうです。
 にもかかわらず、チャーチルは、日本軍の能力を過小評価し、マレーから旧式とはいえ、全ての戦車を撤去し、しかも、旧式航空機を少数しか東南アジアに配備せず、その上、空母の随伴が不可能になったにもかかわらず、艦隊をマレー海域に派遣してしまったわけです。
 しかも、この艦隊を率いたのは、チャーチル個人の好みで少将から大将へと立て続けに引っ張り上げたフィリップスでした。
 首相就任時に65歳であったチャーチルは、世界の第一線の陸海軍の最新の装備や戦法の知識について行けていなかったにもかかわらず、自分が依然軍事通であるとうぬぼれていたため、このような一連の独善的にして致命的な誤判断をしでかしたのでしょう。
 私は、チャーチルが、当時の英海・空軍全体、そして英陸軍の一部が陥っていたところの、人種差別的な日本軍軽視・蔑視意識を共有していたとは思いませんが、彼のイギリス(アングロサクソン)文明の優位意識・・正当なもの・・が人種差別意識に類するところの、日本文明に対する蔑視意識へと堕落するに至っていた可能性はあると考えており、かかる意識があったとすれば、それは、上述のような一連の誤判断を促進したに違いない、と思うのです。
 (当時の英国の軍民の指導層のこのような劣化の背景にあるのは、大英帝国の相対的衰退でしょう。人間落ち目になるとバカになってしまいがちだ、ということです。)
 その結果が、フィリップスやパーシヴァルの拙劣な戦い方・・フィリップスは職務放棄までしでかした・・とも相俟って、マレー沖海戦での大惨敗であり、マレー/シンガポール防衛戦における惨敗であった、ということです。
 つまり、チャーチルは、政治的のみならず、軍事的にも、東南アジアにおける英軍の大敗北の責任を一身に負わなければならない、というのが私の認識です。
 (日本軍の卓越した諜報活動の結果としてのインド国民軍の成立もあり、)その結果が、大英帝国の宝冠であるところのインドの早期独立であり、ひいては大英帝国の過早な崩壊だったわけですから、大英帝国の過早な崩壊について、チャーチルは、その責任を一身に負わなければならない、ということになります。
 まさに、チャーチルは、英国が持った史上最低の首相であった、と言われても致し方ないのです。
 そんなチャーチルの人気が、(大戦末期を例外として、)いまだに英国で高いというのは、英国民の自己欺瞞以外のなにものでもないのであって、英国民の総体としての劣化を示すものです。
 ここから分かるのは、人種差別意識、ないしは堕落した文明的優越感、を抱いていると、人間、誤判断をしてしまう可能性が飛躍的に高まる、ということです。
 そうだとすれば、指導層を含め、白人のほとんど全員が「アングロサクソン」文明以外の全文明に対して堕落した優越感を抱くとともに、有色人種に対して強い差別意識を抱いていたところの、当時の米国が展開した対外政策が、その対東アジア政策を含め、誤判断だらけなものとなるのは必至であったし、実際にまさにそうであった、ということを理解していただけるのではないでしょうか。
 その通りなのです。
 日本を対英米開戦に追い込むことによって、チャーチルは、いわば天に唾して大英帝国を過早に瓦解させた「だけ」だったけれど、このチャーチルの策に乗せられたふりをしたローズベルト政権、そして完全に乗せられた米国民は、全球的な共産主義圏の拡大とそれに伴う天文学的な人命の喪失という惨禍を人類にもたらしてしまったのです。
(続く)