太田述正コラム#4564(2011.2.16)
<イギリス史の決定的岐路(その1)>(2011.5.11公開)
1 始めに
有料コラムが時事問題を扱わなくなったと思ったら、今度は、日本の戦前史ばかりになってしまったと呆れ、残念に思っておられる読者の方も少なくないのではないでしょうか。
今回は、久しぶりにアングロサクソン論がらみの話題をお送りします。
A:http://www.bbc.co.uk/news/magazine-12244964
(2月15日アクセス。以下同じ)
B:http://www.thecnj.com/review/2009/061809/feature061809_01.html
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Hakluyt
以下、基本的にAに拠ったことをお断りしておきます。
2 プロローグ・・欧州大陸との物理的決別
大ブリテン島が欧州大陸から切り離されたのは、わずか8,000年前の紀元前6100年頃であり、氷河期の終焉に伴う水面の上昇により、ノルウェー海溝周辺の内海が決壊して地滑りが起き、地球の歴史全体における最大の津波の一つが時速40kmで10mの高さで大ブリテン「地方」の北西部に衝突し、現在の北海の平野から英仏海峡の湿地帯に至る一帯が海となったことによります。(A)
なお、現在の大ブリテン諸島在住者の大部分の直系の祖先はバスク人(Basuque people。印欧語族に属さない欧州先住民族)
http://en.wikipedia.org/wiki/Basque_people
であるという説を踏まえれば、彼らは既に約1万年前に大ブリテン地方に渡来していた(コラム#379)ので、この一大天変地異を目撃していたはずであるところ、このことに係る伝承が、500万年以上前に突然形成された地中海に係る伝承が残っている可能性がある(コラム#3740)というのに、全く残っていなさそうなのは不思議ですね。
ちなみに、日本列島がアジア大陸から切り離されたのはそれより古く、約1万3,000年から1万2,000年前に宗谷海峡ができた時点です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%97%E5%B3%B6
しかも、宗谷地峡を通じてのアジア大陸との交流は、まだ寒冷であった当時、余りなかったでしょうから、日本列島がアジア大陸から実質的に切り離されたのは、それよりもはるか前だったと言えるでしょう。
これは時間的な話ですが、距離的にも、大ブリテン諸島と欧州大陸の距離(英仏海峡は約34km)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E6%B5%B7%E5%B3%A1
は、日本列島とアジア大陸の距離(対馬海峡:南東側の東水道(狭義の対馬海峡:幅約50㎞)ならびに北西側の西水道(朝鮮海峡:幅約70㎞)からなる。宗谷海峡は約42㎞だが、今では更に間宮海峡約10kmがある)に比べてはるかに近いのです。
http://mekong.ge.kanazawa-u.ac.jp/Subjects/JapanSea/JapanSea02a_J.html
両者のこういった違いは大きいのではないでしょうか。
すなわち、大ブリテン諸島住民、とりわけ欧州大陸に一番近かったイギリス地方の住民は、欧州大陸住民のこと(自分達と似通っている点や異なっている点)を日常的に考えざるをえないのに対し、日本列島住民・・縄文人もその後渡来した弥生人も、そしてそれ以降も・・は、アジア大陸住民のことなどほとんど考えることがないと言ってよいでしょう。
3 欧州大陸との決別
(1)ヘンリー8世
このように、英国が島国であることが、その欧州・・依然としてしばしば「大陸(the continent)と呼ばれる・・に対する超然とした(detached)態度を形成したと考えられています。
歴史家のデーヴィッド・スターキー(David Starkey)は、ヘンリー8世(Henry VIII<。1491~1547年>)<(コラム#61、504、916、927、1334、2840、3469、3804、4278、4280、4312、4314、4408、4543)>は、カトリック教会と決別することによって、イギリス最初の欧州懐疑論者(Eurosceptic=Euroskeptic)になった、と主張しています。(A)
スターキーの言っていることは、以下の通りです。
ヴェネティアの駐イギリス大使は、<即位したばかりの>若き日のヘンリー<
http://en.wikipedia.org/wiki/File:HenryVIII_1509.jpg
>について、「私が見た最もハンサムな君主であり、その丸い顔は極めて美しく、まるで可愛い女性のようだ…」という報告を送っている。
ヘンリーの変貌の種は彼の母親によって蒔かれた。
彼の兄のアーサー(Arthur<。1486~1502年。ヘンリーの最初の妻、アラゴンのキャサリンの最初の夫
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur,_Prince_of_Wales
>)は、テューダー朝における典型的な上流階級の男児として、男に囲まれて育ったけれど、「スペア」たるヘンリーは女に囲まれて育った。
彼は、自分の姉妹達と女官達とともに育ったのだ。
ヘンリーと彼の母親たるヨークのエリザベス(Elizabeth of York<。1466~1503年。イギリス王妃中、唯一、生前、イギリス国王(エドワード4世)の娘にして(エドワード5世の)姉にして(リチャード3世の)姪にして(ヘンリー7世の)妻であった人物
http://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_of_York
>)が並べ書きをした史料が残っているが、著しく似通っていて、恐らくはこの母親がヘンリーに字を教えたであろうことが分かる。
ということは、彼女がヘンリーに影響を及ぼしたということであり、こんなことは当時<の上流階級では>、極めて希なことだった。
アーサーが1502年に突然亡くなり、こんなヘンリーが皇太子になったわけだ。
その、とりわけ狩猟と馬上槍試合への大いなる情熱といった、これみよがしの男性性の対外的顕示にもかかわらず、ヘンリーは、女性の愛と承認を必要とする男であり続けた。
愛と結婚は不可分に結びついていなければならないとの彼の確信の核にこの衝動が存在した。これは、当時としては異例なことだった。
だからこそ、ヘンリーは、最初の妻であるアラゴンのキャサリン(Catherine of Aragon<。1485~1536年
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Aragon
>)<(コラム#4312、4314)>への愛が冷め、アン・ブーリン(Anne Boleyn)<(コラム#3849、4280)>と情熱的な情事を始めた時、愛なき結婚など耐えられない、いやそれどころか不自然な事柄である、ということを自ら正当化できたのだ。
(続く)
イギリス史の決定的岐路(その1)
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