太田述正コラム#4566(2011.2.17)
<イギリス史の決定的岐路(その2)>(2011.5.12公開)
ヘンリーの<キャサリンとの>離婚という解決法は、法王庁からの離反をもたらし、イギリスの歴史をその後5世紀にわたって決定した。
ヘンリーのアンに対する17通のラブレターが残っているが、そのうちの一つの中で、ヘンリーは、アンに結婚することを約束し、「変わり得ない意図」を誓約し「それが得られなければ何もいらない(either that or nothing)」とまで記している。
この手紙によってイギリス史の総体が転換したのだ。
時の法王は、事実上、アラゴンのキャサリンの甥の神聖ローマ皇帝カール5世の捕囚であり、ヘンリーがかくも恋い焦がれた離婚を許可する立場には全くなかった。
その結果が、彼のローマカトリック教会からの離反であり英国教会の樹立だった。
そして、ヘンリーはその首長となった。
このようにヘンリーによる統治はイギリス王国に重大な結果をもたらしたわけだが、その影響は外国においても同等に大きなものだった。
イギリスは、欧州の主流に属する善良なるカトリック国から、16世紀にはならず者国家になったのだ。
ヘンリーが整えさせたところの、精妙な沿岸防衛計画からして、彼が、もはやイギリスを欧州の一部ではなく、欧州から切り離された国家として再定義したことを見て取ることができる。
今や、カトリックの欧州は脅威であり、イギリス侵略の発射台となったわけだ。
換言すれば、ヘンリーは<イギリス>最初の欧州懐疑論者であったということだ。
そして、彼が創造した、排外主義的にして島国根性的な政治は、過去5世紀にわたるイギリス史を規定することに貢献した。
欧州から目を逸らしたことに伴い、不可避的に、ヘンリーは、イギリスの拡張主義的エネルギーを西インド諸島や新世界へと指向を変更させることになった。
ヘンリーによる統治の前までは、フランスとスペインにおける<イギリスの>伝統的な戦場を超えて<イギリスが>帝国的大志を抱いた形跡はなかった。
しかし、ヘンリーの後は、我々は、エリザベス女王の時代における<地理的>発見と4世紀にわたる英国の帝国建設とを見出すことになるのだ。
ヘンリーなかりせば、イギリスはカトリック国であり続け、それが示唆するところの社会的、法的、そして文化的枠組み(trappings)を享受し続けただろう。
<そうしておれば、イギリスは、>例えば、視覚芸術に関してもっと長けた伝統を持ち得たことだろう。
法王庁及び欧州の諸王国とイギリスが関係を維持しておれば、イギリスは、北米、インド、及びオーストララシア(Australasia)に出撃する強い意欲を感じることはなかったかもしれない。
その結果は、オランダ語をしゃべるアメリカになっていたかもしれないし、いずれにせよ、我々が知っているような大英帝国が形成されることがなかったのは、ほぼ間違いないであろう。
(以上、Bによる。)
(2)イギリスの欧州領の完全消滅
とはいえ、ヘンリー8世は、歴代イギリス国王の悲願であったところの、フランス王位の追求をまだ諦めておらず、フランスとスコットランドの連合軍と戦い、その過程でフランス東北部の英仏海峡に面したブーローニュ(Boulogne)を占領しています。
この市は、ヘンリー8世を継いだ息子のエドワード4世(Edward VI。1537~53。国王:1547~53年)の時の1550年、上記戦争終了に伴い、フランスに譲渡され、失われます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England
http://en.wikipedia.org/wiki/Boulogne
より重要なのは、ブーローニュの近傍の、やはり英仏海峡に面したカレー(Calais)の喪失です。
この市は、英仏戦争の間、イギリスのエドワード3世が1347年に奪取(注1)し、1360年の英仏間の条約でイギリスに割譲されたものです。
(注1)オーギュスト・ロダンの著名な彫刻、カレーの市民 (Les Bourgeois de Calais)は、この時、エドワードの最後通告を受け入れ、裸に近い姿で首に縄を巻き、城門の鍵を携えて歩く使節団6名の姿を彫像化したものだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B8%82%E6%B0%91
爾来、2世紀にわたって、カレーはイギリスの国内扱いをされ、イギリス議会に議員を送っていました。
ところが、エドワード4世を継いだ、その姉のメアリー1世(Mary I 。1516~58年。国王:1553~58年11月) が、彼女の夫であるスペインのフェリペ2世と同盟してフランスとの戦争を始めたところ、1558年にカレーはフランスに奪還されてしまうのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Calais
http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England
この両市の喪失は、一般に、イギリスにおけるチューダー朝中期の危機(Mid-Tudor_Crisis)の一環としてとらえられていますが、両市、とりわけイギリス「国内」たるカレーの喪失は、当時のイギリス人に衝撃を与え、欧州大陸との断絶を思い知らされたイギリス国民の間で、欧州大陸の外において新領土を獲得したいという欲求を呼び起こすのです。
(以上、A、及び
http://en.wikipedia.org/wiki/Mid-Tudor_Crisis
による。)(注2)
(注2)イギリス=ハノーバー連合王国が成立した、ハノーバー朝(1714年から1901年・・ただし、事実上ヴィクトリア女王が即位した1837年まで)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%9C%9D
のことを横に置いておくとして、イギリスは18世紀になって、再び欧州大陸において領土を得る。1713年にスペインから奪取して現在に至っているジブラルタルがそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB
(続く)
イギリス史の決定的岐路(その2)
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