太田述正コラム#4568(2011.2.18)
<イギリス史の決定的岐路(その3)>(2011.5.13公開)
(3)リチャード・ハクルート
イギリス人のリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt。1552/53~1616年)は、このような「欧州大陸の外において新領土を獲得したいという強い欲求」を「近代イギリス国家 (nation)の散文叙事詩」にした人物です。
彼の’The Principal Navigations, Voiages, Traffiques and Discoueries of the English Nation’(全3巻。1598~1600年)という本がその「散文叙事詩」です。
その第2巻を自分のパトロンである、ロバート・セシル(Robert Cesil)卿(コラム#4298)に捧げるにあたって、彼は、北米のヴァージニアにイギリスが植民することを強く促しました。
ヴァージニア会社の創設とその事業展開にも、また、ジェームス1世(James I)によるヴァージニア勅許状発出にも、ハクルートは尽力しています。
そのおかげで、チャールス1世(Charles I)が国王になった頃には、イギリスを海洋大国にするという考え方が確立するに至っており、同国王は、1637年に完成したイギリスの戦艦を「諸海洋の主 権者(Sovereign of the Seas)(注
3)と名付けたくらいです。
(以上、特に断っていない限り、A及び以下による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Hakluyt
http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Sovereign_of_the_Seas )
(注3)チャールス1世の個人的発案で1634年に建造を開始した、102門の砲を搭載した装飾だらけの金無垢の1500tを超える巨大戦艦。 グロティウスの唱えた海洋の自由の観念に対抗する、海洋の主権者イギリスの観念・・チャールスは、国王エドガー(Edgar。943~975年。 国王:959~975年)
http://en.wikipedia.org/wiki/King_Edgar
の時に既に確立していたと主張した・・を喧伝しようとした。
この戦艦を建造するために新たな税金を課したことも、イギリス内戦(日本で言う清教徒革命)の原因の一つとなったとされている。
(4)その後
19世紀、米国のマハン(Alfred Thayer Mahan)(コラム#4020、4428)は、英国は、その海岸線を見れば、良い港が多数あって海洋交易に向いていることが分かるが、それは同時に海からの攻撃に脆弱であるということも意味する、と記しました。
すなわち、マハンは、英国が島国であって、その海との関係性において規定される国である、ということを指摘したのです。
このような認識は、20世紀初頭に、アイルランド人小説家のアースキン・チャイルダース(Robert Erskine Childers。1870~1922年)(注4)が、北海から英国に侵攻することをドイツが企むスパイ小説であるところの、 ‘The Riddle of the Sands’(1903年)(注5)を書いたことで、英国において、一層高揚することになるのです。
(以上、A及び以下による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Erskine_Childers
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Riddle_of_the_Sands )
(注4)イギリス系アイルランド人のチャイルダースは、次第に大英帝国の熱烈な支持者からアイルランド独立の闘士へと変身を遂げ、最後はアイルランド独立運動の内ゲバ(アイルランド内戦)の過程で「処刑」される。彼の子息は、独立アイルランドの第四代大統領。
(注5)チャイルダースは、ドイツとの戦争が必至であること、英国がそのための準備をしなければならないことを訴えるためにこの小説を書いた。 ケン・フォレット(Ken Follett)は、これを世界初の近代的スリラーと評する。また、これとキップリング(Rudyard Kipling)’Kim’ のどちらが世界初のスパイ小説かで議論がある。
3 エピローグ
私は、これまでの、ヘンリー8世が、男子の跡継ぎができないのでキャサリンと離婚して再婚しようとしたが、離婚が認められなかったので、カトリックを捨てて英国教をつくった、という通説的説明
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England
に納得できない部分がありました。
というのは、彼の死後、キャサリンとの間の娘のメアリーが(息子のエドワード6世の次に)英国王に就任するのですから、最初からメアリーを後継者とすることだってまんざら不可能ではなかったのではないか、と私には思えたからです。
ご紹介したところの、スターキーが昨年唱えた新説に説得力があると思うのは、結婚が愛を伴うものでなければならないというのは個人主義者たるイギリス人庶民固有の社会通念であった(コラム#88)ところ、ヘンリーが、その育った事情もあって、王族としては異例にもこのイギリス庶民の結婚観を抱き、愛の失われた結婚を解消することを許さないカトリック教会に嫌悪感を持つに至ったとしても、決して不自然なことではないからです。
そんなヘンリーにとって、自分、ひいてはイギリスをカトリック教会と絶縁させてまでして再婚したアン・ブーリンが色情狂であって不倫を重ねたこと(コラム#3849)がどれほど衝撃的であってその怒りを呼び起こしたかは想像に難くありません。
このように考えれば、エリザベスを生んだアンを処刑し、次いで三度目の結婚をしたジェーン・セイモア(Jane Seymour)がエドワード(6世)を生んだ産褥で亡くなると、四度目の今度は写真結婚ならぬ絵画結婚をドイツ人のクリーヴスのアン(Anne of Cleves)と行い、その容貌等にがっかりしてすぐ離婚(形は結婚無効)して、五度目の結婚をアン・ブーリンの従姉妹のキャサリン・ハワード(Catherine Howard)と行うも、何とまたその不倫が露見したために彼女を処刑し、六度目で最後の結婚をキャサリン・パー(Catherine Parr)と行う、という、ヘンリーの、一見放縦の限りを尽くしたかのような女性遍歴
http://en.wikipedia.org/wiki/Wives_of_Henry_VIII
は、まことにやむをえないものとして理解できるのです。
(もっとも、それならそれで、キャサリンのような、類い希な才色兼備の、しかも貞節な妻
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Aragon
にあきたらなかったヘンリー8世が、私にはいささか腑に落ちないのですが・・。)
要するに、いかにもイギリス人らしい、結婚に愛を求めた男が、たまたまイギリス国王であったことが、イギリスを欧州大陸と決別させることになり、ここに、決定的にアングロサクソン文明と欧州文明は互いに相容れない存在となった、というわけです。
最後にもう一点。
生粋のイギリス人は、誰もイギリス、ひいては英国を海洋国家であると形容することはなかった・・その例外に近いのがチャールス1世・・ところ、 米国人のマハンとアイルランド人のチャイルダースが、19~20世紀の変わり目にもなって、ようやくそう形容した、という点にも、私のかねてよりの指摘であるところの、自らを韜晦するイギリス人の面目躍如たるものがありますね。
(完)
イギリス史の決定的岐路(その3)
- 公開日: