太田述正コラム#4580(2011.2.24)
<日英同盟をめぐって(続)(その18)>(2011.5.17公開)
 「日本軍においても、違法な命令は理論上当然無効であり、服従義務は否定されていた。しかし、・・・たとえ違法な命令であっても部下は服従を拒まないのを常態とし、またこの場合部下の責任を追及しないのが一般的通念であった。・・・
 英軍の1914年版『軍法便覧(Manual of Military Law)』第443条は、「軍隊構成員で、政府または指揮官の命令により、承認された戦争法規に違反した者は戦争犯罪人ではなく、敵により処罰されない」と規定していたが、1944年4月に「戦争法規が交戦国政府や個々の指揮官の命令によって犯されたという事実は、当該行為から戦争犯罪の性格を奪うものではないし、原則として犯罪者を被害国による処罰から免除しない」と改正された。戦争の帰趨が明らかになったこの時期における改正は、戦後、枢軸国の戦争犯罪人に「上官命令の抗弁」を許さないためであったと考えられる。」(290~291)
→合法の装いの下での復讐を行う準備を周到にやっていたとは、落ちぶれた大英帝国ここにあり、といったところですね。(太田)
 「無条件降伏にあたり、それまで捕虜となることを事実上認めていなかった軍当局は、降伏後の日本軍人軍属を捕虜とは認めないとの命令を発し、南方軍総司令部も東南アジア連合軍との交渉において、日本軍人は捕虜ではないとして、「降伏軍隊」としての名誉と待遇を要求した。これに対し、東南アジア連合軍は「降伏軍人」という地位を認めた。捕虜・・・<であれば、>将校は隔離収容され、英軍が捕虜に認められた高い給養定量で生存のための責任を負うなど、すべての点でジュネーヴ条約に従って取り扱われるのに対し、・・・降伏軍人・・・は従来どおり将校と部隊の指揮下におかれ、指揮官が規律と行動、生存維持にについて責任を負うという点で異なる。・・・
 <これを奇貨として、>給養について作業隊員・・・<たる>日本軍人は英軍の定量の約半分しか与えられなかった・・・。<その結果、栄養失調に起因した死者がかなり出た。>
 <また、>これらの労働に対する賃金は、1947年6月まで一切支払われなかった。・・・さらに、その支払率も、・・英本国の当時の賃金水準の32分の1の安さであった。・・・
・・・また、日本軍人は「完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営む機会を得しめられるべし」とのポツダム宣言第9項に違反して、英軍はソ連を除く連合国が日本軍人の送還を終了した1946年7月以降も戦後復興と食糧増産の名目で東南アジア各地に10万5960人もの日本軍人を抑留し、種々の労働を課した。最後の復員船がシンガポールを出港したのは、1947年10月末であった。・・・
 <かつ、>また、シンガポールの軍港では、独立闘争中のインドネシア軍との戦闘に使用する武器弾薬の積み卸しという、国際法に明白に違反する作業も命じられた。
 さらにまた、東南アジア連合軍から武装を解除された日本軍が再武装を命じられ、インドシナ半島やマレー半島では共産ゲリラの鎮圧に、ジャワ島では連合軍捕虜や民間抑留者の保護・救出、インドネシア武装勢力に対する治安維持作戦などに使用された事実もあり、かなりの戦死者が出ている。・・・
 「捕虜」に対する報復は、国際法により禁止されている<というのに・・。>」(292~296)
→会田雄次の『アーロン収容所』の背景がこれでよく理解できますね。
 結局のところ、終戦後、英国は日本に対する報復目的の明白な国際法違反をたくさん犯したわけですが、それに加えて、合法性の装いの下においても、報復を行った点が斜陽の英国特有のいやらしさである、と言えそうです。
 もっとも、そんな合法性の装いを可能にしたところの、飛んで火にいる夏の虫的な愚行を演じた帝国陸軍当局も、厳しく批判されるべきでしょう。(太田)
17 ジョン・プリチャード「BC級戦犯と英国の対応–戦犯裁判に関する英国政府および軍当局の視点」
 これも、紹介すべき箇所の全くない論考でした。
18 千田武志「英連邦軍の進駐と日本人との交流」
 「英国の発意による英軍中心の対日英連邦占領軍の形成という構想は、・・・単独の対日占領軍を派遣<したかった>・・・オーストラリアの抵抗と・・・ソ連軍の参入を阻止<したかった>・・・米国の世界戦略を睨んだ日本占領計画によって、オーストラリア軍中心の英連邦占領軍が連合国軍最高司令官のもと、連合軍の一部を形成するということで決着した。こうした英連邦占領軍の位置づけについては軍事作戦上は米軍の指揮下に入ること、軍政面に関与できないこと、占領地が重要視されていない広島県とその周辺地区であることなど、英連邦諸国、とくに英国にとって不満の多いものであった。」(324~325) 
 「<このように、>国際間の力関係の変化を<思い>知らされた英国は、英連邦占領軍総司令官にノースコット中将の起用を認めたのにつづき、対日理事会の英連邦代表にボール、極東国際軍事裁判長にウェッブと、いずれもオーストラリア人が就任することに同意した。」(326)
→見る影もなく凋落した英国の姿がここにあります。
 日本に文字通り敗れた英国が、こうしてその悲哀を噛み締める一方で、米国は、日本に実は敗れたことに気づかぬまま、日本に成り代わる形で対ソ対峙をするために、(日本によって)日本占領軍を日本に派遣させられた、というまことにもって笑うに笑えぬような滑稽な図式がここに現出したわけです。(太田)
19 今泉康昭「戦後の日英軍事交流–世紀を越えて」
 「自衛隊の生みの親であった総理大臣吉田茂<は>、新しい「国軍」は英国風の自由とデモクラシーを理解した軍隊でなければならぬと、吉田が駐英大使時代の駐英陸軍武官で2回の駐英武官を経験した陸軍隋一の英国通の辰巳栄一中将を軍事顧問に選定し、さらに自衛隊の幹部を教育する防衛大学校の校長には英国で教育を受けた人をと、ケンブリッジ大学出身の槇智雄を選び、軍事教育部門の責任者である幹事には駐英陸軍武官補佐官の陸軍大佐松谷誠を選んだ・・・。」(345)
→英国が日本帝国を瓦解させた正犯であるという自覚が全くなかったとしか思えない吉田茂によるところの、愚かな親英的「身内」人事です。
 結局のところ、吉田は一貫して英国事大主義者であり続けたということであり、戦後は、せいぜい、彼は米国を中心とするアングロサクソン事大主義者へと微修正しただけであったのでしょうね。
 何度もくり返して恐縮ですが、先の大戦中に英国はチャーチルという史上最低の英首相を持ったのに対し、先の大戦終了直後に日本は吉田という史上最低の日本首相・・この20年くらいの日本の首相はいずれもひどいが、属国であるがゆえに致命的な誤りは犯していない、というより犯しえなかったが、吉田は日本を属国化させるという致命的な誤りを犯した・・を持ったわけです。
 では、一体、チャーチルと吉田のどちらがよりひどいのでしょうか。
 吉田でしょうね。
 吉田は、自分のエゴと自分の出身組織(外務省)の組織エゴのため、という矮小この上もない動機から祖国に大きな損害をもたらしたのに対し、チャーチルは、国策の優先順位の誤判断と軍事指導の誤りによって祖国に大きな損害を与えたけれど、私の見るところ、自分や特定組織のエゴからは基本的に自由であったからです。
(完)