太田述正コラム#4584(2011.2.26)
<ジョージ・サンソムの過ち(その2)>(2011.5.19公開)
「1943年・・・5月29日、<米国務次官代理の>グルーはサンソムに、はじめて、これまでアメリカ政府内部で討議され、ほぼ固まってきた戦後対日処理案、「初期対日方針」(SWNCC-150)の内容を伝える。・・・
イギリスの態度決定が、早急になされねばならなかった。その過程で当然のことながら、イギリス政府はサンソムのもつ該博な知識と豊富な経験に大きな信頼を寄せる。サンソムは、・・・6月20日、長文の覚書をものして、これを本国政府に提出した。すぐれた歴史家でもあり、外交官である≪知日家≫サンソムの面目躍如といった名文章をそこにうかがうことができる。・・・
<そ>の要点<は、>・・・まず、・・・<米案に>三点で反対する。(1)軍政府による統治形態を志向している点。(2)「日本を長期に、かつ包括的に占領する構想」である点。(3)「日本の政治制度の性格を指示し、また日本人の再教育をはかろうとする大規模な企図」である点。
日本の民主化、非軍国主義化という、アメリカの対日政策の目的自体については、もとよりサンソムは反対でない。しかし、この目的達成のために大規模な軍事占領は無用なのだという。
→「日本の民主化、非軍国主義化」という目的を所与のものとしていたことこそ、サンソムが日本を理解などしていなかった証左です。
なぜなら、日本は戦前既に民主化していたわけですし、その日本という民主国家が国民の意思に基づき安全保障上の必要に迫られて戦争をする場合があるのは当然であり、そんなものが軍国主義であるはずがないからです。
そんなサンソムが「すぐれた歴史家」でも「<すぐれた>外交官」でもあるわけがありません。
いずれにせよ、クレイギーを退け、こんなサンソムを重用したのがチャーチル政権であったことを、我々は銘記すべきでしょう。(太田)
「貿易をコントロールするポジティブな力と、条約の締結を差控えるネガティブな力の併用によって、連合国は結束さえ保てれば、日本をして自発的に政治制度の変革を行なわしめる方向に導いてゆくことができるはずである」
西欧諸国は現にこの種の制裁行使によって、日本での制度の近代化を達成したではないかとして、歴史家サンソムは、明治日本の歴史を引用して、関税自主権の否定と、通商条約の交渉拒否が、有効な武器として機能したことを指摘する。この経済制裁手段に対する日本経済の構造的脆弱という議論は、商務参事官としての多年の分析にもとづく、サンソムの確固とした信念でもあった。
→明治維新は経済的理由で起こったわけではありません。
また、重要資源や原料の海外依存に起因する輸出入の必要性があるからといって、一概に、日本に対する経済制裁が、他国に比べてより有効であるとも言えません。
戦争少し前においては、日本は確かに孤立していて、経済制裁に極めて脆弱であったけれど、それは、米英露(ソ)支が協調して日本と対峙するという、ありうべからざる異常事態が起こったからであり、戦後、冷戦の到来に伴い、このような異常事態が雲散霧消したことはご存じのとおりです。
((占領中はともかくとして、主権回復後の)日本の政策が気に入らないと米国等西側諸国が対日経済制裁などすれば、露中等の「東側」諸国やインド、インドネシア等の「非同盟」諸国がよってたかって日本と交易をしてくれたことでしょうからね。)
サンソムの「確固とした信念」は、現実に立脚しない思い込みにほかならなかったのです。(太田)
さらにサンソムは、日本に対外貿易活動を認めることが重要だという。
「日本が軍備の負担をおわず、一定の外国貿易を活発にし、そのエネルギーを国内市場の開発に向けるということになるならば、日本政治の自由化の展望は明るくなるであろう」
→サンソムは、まさに、日本が吉田ドクトリンを採用することを推奨していたわけです。
これに限らず、サンソムの考えは、後で出てくるように、米国による日本の戦後占領政策にかなり大きな影響を与えたことからして、憲法第九条はサンソムに由来する、という見方もできそうです。(太田)
このように、日本の政治的民主化は、外から押しつけるべきではなく、自発的に日本国民がその方向に進むよう、外部から影響力を加えるだけで十分なのだと、サンソムは説くのである。
また軍事的コントロールが一定期間、どうしても必要だというのなら、いくつかの主要地点の占領と、軍艦の碇泊と、時おりの示威飛行だけで十分だという。
そして最後に、サンソムはいう。
「天皇のもつ憲法上の大権を停止するより、連合国はむしろ天皇の大権や現在の統治機構を通じて活動する方が、悪法の廃止、政治結社の解散、教育の改革、言論・宗教の自由といった要請達成の上で効果的であろう」
と間接統治方式と天皇制維持を支持するその考えを明らかにする。
かくて、かつて軍国日本とそれへの≪宥和政策≫に厳しい目を向けたサンソムは、苦境に沈む敗戦日本には、本来の≪親日家≫に戻って、懲罰を加えることでなしに、寛大な講和条件のもとで、日本が軍国主義的要素をとろのぞき、民主主義国家として新しい発展の道を歩むことを期待していたのである。」(155~157)
→サンソムの期待に応えるがごとく、吉田茂という、「外部から影響力を加え」られるだけで、「自発的」に再軍備放棄(=軽「軍備」)・経済優先の方向に舵取りをする日本人有力者が出現したことを我々は知っています。
そんな構想を描いた「反日家」サンソムを、よりにもよって「親日家」と賞賛するのですから、細谷自身、吉田ドクトリン信奉者、つまりは、(いくら何でも、そう断定するのは短絡的に過ぎるのではないかというご批判は甘んじて受けますが、)失格政治学者である、と断ぜざるをえません。(太田)
「イギリス外務省は、早速イギリス対案の検討にとりかかるが、結局「サンソム覚え書き」にほぼ全面的に依拠する形の結論をだすこととなる。・・・
イーデン外相は・・・アメリカ側の反応を考慮し・・・天皇にふれた箇所を削除し、連合国は目的達成をはかる上に、「日本の政府機構を通す」とのみしるした修正案をつくった。」(158~159)
「<また、>「無条件降伏」問題についての態度決定<については、>・・・7月6日、ロンドンに戻っていたサンソムを交えて、<英外務省内で>この問題<が>討議<された。>・・・
ポツダム宣言の草案が、アメリカ側からポツダムで提示されたとき・・・イギリス政府から提示された修正案<は、>・・・第一に、原案は・・・「直接軍政」を示唆していたが、修正案では、日本政府機構を通じて行なわれる「間接統治」を意味するものに変えられた。第二に、原案の「全土占領」が、修正案では「地点占領」に直された。第三に、修正案では、政治形態についての「押しつけがましい」ニュアンスが薄れた。7月26日、世界に声明されたポツダム宣言は、右のイギリス修正案にごく些細な変更が加えられたものである。
・・・<こ>の修正点は、「サンソム覚書」と基本趣旨において、似通っていることが注目される・・・。」(159~161)
→かくして、戦後日本人は、吉田ドクトリンを、「押しつけがましい」米英の策謀であると受け止めるどころか、先見性ある吉田の創案によるところの、戦後日本が自ら主体的に選択した国家戦略である、と思い込まされたまま、現在に至っているわけです。
心賤しき吉田が、英米の誘導に、それが自分のエゴと自分の出身組織たる日本の外務省の組織エゴを充足させるものであったがゆえに積極的に乗った、というのがことの本質であるというのに・・。
考えて見れば、サンソムを責めるより、そんなサンソムの考え方を採用したチャーチル政権、より端的に言えばチャーチル、をこそ責めるべきでしょうね。
そうです。
チャーチルは、大英帝国を過早に瓦解させたと言えるだけでなく、日本の「主体的」属国化・・吉田ドクトリンの恒久化・・の仕掛け人でもあったとも言えそうであって、彼が、政治家として、一度ならず二度までも、かくも深刻な過ちを犯したことは、万死に値するのであり、チャーチルは、英国の史上最低の首相であるのみならず、(日本を先の大戦に引きずり込んで日本帝国を瓦解させただけではなく、戦後日本の属国化のお膳立てまでしでかしたとも言えるところの、)日本人の仇敵である、ということになりそうです。(太田)
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蛇足的補注:サンソムの予言は、この点では的中したではないか、という揚げ足取り的質問に先回りして答えておこう。
吉田茂が、GHQとの折衝役たる外相であったことから、外務省の先輩の幣原を首相に据える根回をしてそれに成功したフシがあり、かつ、GHQが日本国憲法草案を押しつけてきた時にそれを丸呑みにすることに大いにあずかり、その上自らを首相にすべく画策してそれに成功した可能性が高く、次いで、今度は首相として、日本国憲法の定着化を推進する立場にあったこと、かつまた、朝鮮戦争勃発時にも、再び首相の座にあって、GHQの再軍備要求を拒否できる立場にあり、それを拒否したこと、の相当部分は歴史のいたずらと言えるのであって、このうちのいくつか、いや、一つ欠けていたとしても、日本の「主体的」属国化=吉田ドクトリンの恒久化、はなかった可能性が高いことから、サンソムの上記予言はまぐれあたりであったと言うべきだろう。(太田)
(完)
ジョージ・サンソムの過ち(その2)
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