太田述正コラム#4590(2011.3.1)
<戦前の日本の外相(その1)>(2011.5.22公開)
1 始めに
XXXXさん提供の、I.ニッシュ/宮本盛太郎監訳『日本の外交政策 1869-1942–霞ヶ関から三宅坂へ–』(ミネルヴァ書房 1994年)(Japanese Foreign Policy, 1969-1942:Kasumigaseki to Miyakezaka(1977念)) からピックアップする形で、日本の戦前の外相の月旦を行い、もって外交官のあり方について考えたいと思います。
なお、XXXXさんが、この本のコピーを幣原喜重郎のところまでしか提供されていないこと、また、それ以降までとりあげると、既存の様々なコラムと重複することはもとより、次あたりに紹介する予定の、同じ著者によるところの、『戦間期の日本外交』(ミネルヴァ書房)とバッティングすることから、幣原喜重郎・・彼自身、過去何度も取り上げてきていますが・・までを対象にしたいと思います。
2 岩倉具視(1825~83年。外務卿:1871年)
「1869年4月、岩倉は次のような鋭い指摘をしている。
皇國の獨立を保護せすんはある可からす目今の如く外國の兵隊か我か港内に上陸せしめ又居留洋人の我か國法を犯すものあるも彼か官人をして之を処<(但し旧字)>置せしむる等は尤我か皇國の恥辱甚きものと謂ふへし。
日本の独立とは名のみで、実は独立していない。これは、彼れが繰り返し繰り返し説いたところである、おそらく、これは、1870年代の日本に対する悲観的にすぎる評価であった、と言えよう。というのも、岩倉が好んで強調したほど、日本が外国の保護監督下にあったわけではなかったし、また岩倉が恐れたほど、西洋列強は日本を奪い取るべく虎視眈々と狙っていた、というわけでもなかったからである。しかし、このような脅威も、彼にかかれば、物は使いようということになった。即ち、この脅威のおかげで彼は、西洋に倣った富国強兵の必要を国民に訴えることができたのである。」(4~5)
→ニッシュは、やや穿ち過ぎではないでしょうか。
幕末から維新にかけての日本の指導者達は、不平等条約によって、日本の主権が制限されていることを本当に深刻視していたのだと私は思うのです。(太田)
「1869年7月8日、太政官制度ができた<が、>・・・大久保<利通>の原案によると、外務省は第一位の省ということになっていた。・・・<だから、>岩倉<が二代目の外務卿に>就任<したの>は、意外なことでもなかろう。彼が実際在職した期間は極めて短いものであった<が、それは、>・・・岩倉<が>指導的な政治家からなる使節団を率いて、欧米に赴くように命じられたからである。」(6)
「岩倉が・・・1873年・・・9月に帰国したとき、政府の征韓計画は、相当進んでいた。・・・廟議において、岩倉は、・・・<征韓論(注1)に反対して>次のように述べた。日本の富と力は、世界の水準に達していない、これは遅滞無く発展させなければならない、そして、その途上で庸懲政策を採るには、我が国力は不十分である、と。さらに彼は、北方樺太におけるロシアの活動が日本に及ぼしている危険性を強調した。・・・危機が絶頂に達したとき、三条太政大臣は病のため引き下がった。そこで、太政大臣代理となった岩倉は、・・・10月23日、この方針に対する天皇の裁可を得たのである。征韓派は辞職した<(=明治6年政変)>。・・・<このため、>岩倉は、翌年1月、暗殺未遂の難に遭った。」(17)
(注1)「幕末の国学思想、尊皇攘夷思想の中で民衆レベルにまで三韓征伐神話が語られるようになり、日鮮同祖論や征韓論のベースになったとされる。・・・幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。・・・日本書紀の神功皇后紀では高句麗新羅百済を「三韓」と呼び、国学思想においては朝鮮半島を下に見る思想があった。これに対して「朝鮮」は太古の伝説から取って李氏朝鮮が使っていた正式国号である<が、>・・・征韓派は好んで「征韓」を用いた。・・・
明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。・・・
1873年・・・参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、10月に遣韓中止が決定された」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
→イデオロギーにかぶれた板垣、西郷、後藤、江藤らに対し、リアリストの岩倉、大久保、木戸らが対立したわけですが、対露安全保障を最重視する岩倉が、生命の危険を顧みず、征韓論を退けるのに中心的役割を果たした、とのニッシュの指摘は腑に落ちるものがあります。(太田)
岩倉は、公家の出身であり、儒学と歌道を学んだのが受けた教育のすべてですが、政治的才覚が抜群であり、宮中でどんどん頭角を現して行った人物です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
優秀な外相、というか外交官は、どのように育てればよいのか、そもそも、育てようとして育つものではないのか、といったことを考えさせられますね。
(続く)
戦前の日本の外相(その1)
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