太田述正コラム#4602(2011.3.7)
<戦前の日本の外相(その7)>(2011.5.28公開)
8 幣原喜重郎(1872~1951年。外相:1924~27年、1929~31年。首相:1945~46年)
 「幣原は人付き合いが悪く、ばかげた言動を容認することはなかった。この様な特質は、はっきりいって外交官には希な性格である。幣原は同僚の間でも余り人気があるとは言えなかった。大使としての幣原は、子飼いの部下のために色々と思いやりをかけたり面倒を見てやるということはしなかった。・・・外務大臣としての幣原は、下僚に仕事を任せることができず、文書類の作成に必要以上の時間をかけるという点でしばしば批判されている。しかし、日本人以外の者には、幣原は友好的で陽気にさえ見え、また友人達には多弁で率直な人物に見えたのである。
 幣原は堂々たる一家言のもち主であった。これは、幣原が関西人の気質を強くもっていたためでもあり、また、明らかに財政的に独立していたことにもよる。というのは、1903年に、幣原は三菱財閥岩崎家の末娘雅子と結婚した(このような巡り合わせで幣原は加藤高明の義弟となった)からである。・・・幣原は政党政治に真剣にかかわろうとしなかったが、それはおそらく政党政治を軽蔑していたからであろう。幣原の外交政策の立場は不偏不党性にあったが、このような外交のあり方こそが理想である、という信念を幣原は抱いていた。
 試験制度草創期の入省者達のなかで、幣原は出世頭であった。・・・なかでも卓抜した英語力ことに英文の表現力は特筆される。・・・
 幣原は試験制度導入後の入省者のなかで、外務大臣に就任した最初の人物であった。・・・」(138~140)
→幣原は組織人として失格であり、幣原外交は、明治期の個人外交への復帰である、ととらえることもできるでしょう。
 案の定、幣原は外相時代に暴走してしまうのです。
 こんな人間は次官にすらしてはならなかったというのに・・。
 ただし、外国人には愛想が良く、外相時代を含めて日本の世論から超然としていた、という意味では、幣原は、日本の典型的な外交官であったと言えるでしょう。
 申し上げるまでもなく、幣原は、東大法学部を卒業して外務省に入った純粋培養人間であり、外務省入省後、留学経験もないもようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
 その彼に、その死の直前の1950年から読売新聞に連載した回顧録(『外交50年』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%B9%B4
以外に著作がなさそうであるのも、むべなるかなです。(太田)
 
 「シベリア問題と幣原との関わりは外務次官時代に遡る。当時幣原は微妙な立場におかれていた。すなわち、上司である[外相]本野一郎(1916年~18年)と[外相]後藤新平(1918年)はいずれも、ボルシェヴィキ勢力に対抗して行うシベリア及び沿海州地域への出兵には好意的であった。この点について、本野と後藤は外務省の数人の課長からも支持を得ていた。だが、霞ヶ関で多数を占める「幣原閥」は出兵に反対した。出兵という措置には危険がつきまとっており、また日本の介入に対してアメリカも強く反対しているというのが、出兵反対の理由であった。」(160)
→組織人間失格の幣原にどうして閥ができたのか、まか不思議なことですが、典拠が明らかではないものの、「吉田茂が言うには、「一時、外務省の主要ポストは幣原さんの息のかかったもので占められたことがあるが、・・・・どうも語学に堪能なものを以て、有能な人物と決め込んで」いる節もあったという」
http://www.geocities.co.jp/since7903/zinbutsu/si.htm
あたりが、案外真実ではないかと思います。
 言うまでもないことながら、語学は外交官にとって必要条件ではあっても、十分条件では全くありません。
 また、幣原が米国事大主義者であることが、(後で出てくるように、彼が反共主義者であったというのに、)シベリア出兵に反対したことからも見えてきます。(太田)
 「<幣原の第一期外相時代、彼が>1924年7月1日に行った最初の議会演説で、幣原は、1915年<の21カ条要求>以来国際的に非常に悪いイメージを与えてきた日本の政治的野心に代えて、経済的利益に焦点を合わせようと望んだ。そこで、外務省を使って新たな貿易相手国を開拓しながら貿易を積極的に奨励することにした。幣原が外相になったのは、アメリカの移民法をめぐる危機の最中であり、幣原はその危機を冷却化しようとしたのであった。」(158)
→米国事大主義者にして経済至上主義者と来れば、幣原は、吉田ドクトリンの元祖と言ってもよさそうです。
 (これも典拠が明らかではありませんが、)幣原の第二期外相時代に吉田茂次官とはそりが会わなかったようです
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/magazines/hon/0706/index04.html
が、外相として後輩の吉田を次官に据えたのは幣原であり、もともと二人の考えが似通っていた可能性が大です。
 吉田が戦後、幣原を首相に据えるお膳立てをしたのは、このような背景の下で理解すべきでしょう。(太田)
 「<幣原が初めて外相に就任した時、>ソ連はすでにラッパロ条約(1922年)でドイツに承認され、1924年2月にはイギリス・イタリアから承認された。さらに、ソ連代表と中国の一世党[国民党]との間では何か取り引きが行われている気配もあり、1924年5月30日の中ソ条約[ソ連国交回復協定及東支鉄道暫行管理協定を指すと思われるが、同協定締結は5月31日]が日本を対象としているのではないかとの恐れも強かった。・・・
 <幣原の交渉方針は、>日本がソ連を承認し外交・領事関係を再開する一方、ソ連はニコライエフスク事件<(コラム#3772)>にについて謝罪する、というものだった。・・・<日本軍の北サハリン>撤退の見返りとして協定が・・・1925年5月15日・・・調印され、日本にサハリンの石油・石炭の採掘権が与えられた。」(164~165)
 「<幣原の第二期外相時代、>幣原は陸軍を嫌うこと甚しく、幣原は武力行使を承認しようとはしなかった<が、>・・・1930年7月に共同行動の機会が訪れたとき[7月28日共産党が長沙を占領、日本領事館が焼失した]、幣原は、この時長沙にあった日英米の砲艦が長沙を占領下共産主義勢力に対して爆撃を求める湖南省政府の要請に応えることを認めた。これは、1925年にはまず認めることはなかった武力行使であった・・・。幣原が・・・反共主義者であったことは論を俟たない。・・・
 幣原の第二期は、・・・ロンドン海軍条約を除いては、大して成功したとはいえない。」(185~186、193、194)
→幣原は、日ソ国交樹立を行ったけれど、反共主義者、つまりは反赤露ではあったことを忘れてはなりません。(太田)
 「幣原は、掛け値なしに親米的であった。つまりワシントン条約を遵守すべきであると誠実に信じていた、と思われる。・・・幣原はまた軍縮を歓迎し、1924年10月の連盟総会に提出された平和決議に無条件で賛成した。この意味で、幣原は国際協調主義者であった。しかし、・・・幣原は、イギリスとよりもむしろアメリカと協力する傾向があった(あるいはイギリスはそのように見ていた)。」(166)
→ニッシュが、まさに、幣原が米国事大主義者であることにお墨付きを与えてくれているわけです。(太田)
 幣原は、駐米大使館に参事官として在勤し、更に1919~22年には大使として在勤しており、この二度の滞米経験を踏まえ、その外相就任時までには、英国に代わって米国が既に実質的に世界覇権国であることを明確に自覚するに至っていたに違いありません。
 ですから、彼は、米国と覇を競いあうようなことは諦め、東アジアにおいて、日本は、地域の政治的覇権国としての地位から降りて米国のリーダーシップに従うこととし、もっぱら地域の経済的覇権国たることに甘んじようとした、と考えられるのです。
 しかし、これは、その米国が、人種主義的帝国主義国であるが故にいかなる形であれ日本が地域の覇権を維持することを許さない国であり、その上赤露に対する認識が大甘であった国であることを等閑視した外交政策であり、愚劣極まるものでした。
 この幣原は、その誤った外交政策のおかげで、日本にとって、その唯一最大の与国であったところの英国との関係を取り返しがつかないところまで悪化させてしまい(典拠省略)、日本の孤立をもたらし、ひいては日本帝国瓦解の芽を蒔いてしまった、と言うべきでしょう。 
9 終わりに
 以上見てきたような経過を辿って、明治維新以来、日本の外交官のレベルは次第に低下して行き、幣原喜重郎が外相になった頃にはそのレベルは取り返しの付かないところまで低下してしまっていた、ということです。
 その結果、先の大戦において日本は一旦滅びるに至ったところ、その後も日本の外交官のレベルの低下は続き、幣原の薫陶を受けた吉田茂は、あろうことか、私益のために日本を米国の属国にしてしまい、その吉田の不肖の弟子達が、その状況を恒久化させて現在に至っている、ということになるわけです。
(完)