太田述正コラム#4614(2011.3.13)
<ニッシュ抄(その6)>(2011.6.3公開)
 「<1931年>9月18日、・・・満州事変が勃発した・・・。
 6月に関東軍司令官に新任されたばかりの本庄繁陸軍中将・・・は・・・、政府の不拡大方針に反してでも、奉天外への戦闘行為の拡大を認める決意を固めていた。このような行動は、日本が国際連盟の会合で最初にとった公式方針、すなわち撤兵の方針とは矛盾していた。
 満州問題では陸軍の行動は国民の人気を博していた。これに反して、内閣の権威は目に見えて軽んじられるようになった。民政党内閣は、・・・<この問題で>二つの派に分裂した。・・・<また、>安達謙蔵<(注12)>内相は現下の非常事態に対処するための連立内閣論を唱えた<が>、若槻首相<(注13)は>挙国一致内閣に反対であることを明らかに<した。>・・・<更に、>円売りドル買いが激しくなっていたが、内閣は、金本位制からの離脱が急を要する問題であるか否かで<も>、意見が分かれた・・・。・・・
 (注12)1864~1948年。県立中学済々黌卒でジャーナリストを経て衆議院議員。「加藤高明内閣で逓信大臣、濱口雄幸内閣と若槻禮次郎内閣で内務大臣を歴任・・・。軍部に同調的であった安達は、政友会と協力しあって連立内閣を作り、軍部とも提携して難局を切り抜いていくことを考え、若槻首相に提案した。若槻首相は、安達とは逆に軍部の台頭による政治の無力化を防ぐためにも政友会との連立は必要と考えて賛同した。一説には、最初若槻首相が安達内相にはかり、政友会から協力をもらうよう依頼したとも言われる。安達は政友会の久原房之助から合意をとり、協力内閣運動の声明も発表するなどして、政友会総裁の犬養毅を首班とする連立内閣の成立に向けて動いた。
 しかし協調外交を主張する外相の幣原喜重郎と、緊縮財政を主張する蔵相の井上準之助らの強い反対を受け、当初安達と同じ考えだった若槻首相は、態度を変え、協力内閣の考えを捨ててしまう。当時政友会は、森恪をはじめとして幣原協調外交に批判的であり、また金輸出の禁止を強く求めていた。
 若槻の翻意により既に政友会から合意を得ていた安達の面目はつぶれ、引くに引けないまま安達は自宅に引きこもり、閣議に出席しなくなる。当時の日本の制度により、総理には閣僚を解任する権限がないため行政の停滞が続き、ついに閣内不統一により若槻内閣は総辞職した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E8%AC%99%E8%94%B5
 (注13)1866~1949年。東大法、大蔵次官、蔵相2回、内相(普通選挙法と治安維持法を成立させる)を経て、二度にわたって首相を務める。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E
→安達と若槻は、戦後の用語で言えば、それぞれ、優れた党人派とダメな官僚派の代表のような人物であり、人格、識見両面において、断然安達に軍配があがります。
 (若槻には「ウソツキ禮次郎」という渾名がついている。(ウィキペディア上掲))
 東大法教育に致命的欠陥があるからだ、と改めて指摘したくなります。(太田)
 このころ<国際>連盟において、・・・調査団を<満州>に派遣するという決議案が提出されていたが、12月10日、若槻内閣は日本もこの決議案に賛成することによって軍紀の問題に連盟を引き込<み、もって>・・・軍部の規律強化を<図ろうとしたのである。>・・・
 その翌日、民政党内閣は議会になお多数を擁しながら総辞職した。」(110、112~114)
→満州事変を関東軍が下克上的に行ったことは、その結果は既成事実として追認する以外にないとして、帝国陸軍の規律違反は厳しく追及すべきであったところ、若槻は、自らの生命をかけて粛軍に取り組むか、せめて満州事変勃発直後に抗議の内閣総辞職をすべきであったのです。
 自国の粛軍を、外圧を利用して行おうとするなど言語道断であり、どんな成り行きになるか予想がつかないだけに、無責任の極みでした。(太田)
 「<1931年>12月13日、政友会の老総裁犬養毅(1855~1932年)<(注14)>は、政党内閣を組織することになった。後継首班の奏推権を有する元老西園寺公望が多数党による新内閣の形成に力を尽くさず、なぜ野党の党首を天皇に推挙したのかについては、いまだにはっきりしたことは分からない・・・。・・・犬養首相は、満州に対する中国の主権を承認することによって、同地における事実上の日本の覇権を中国側に受け入れさせることができるかもしれないと考えていた(この考えは、基本的には、のちにリットン調査団が提案し、日本の断乎たる拒絶にあうことになる方式と同じものであった)。・・・彼は、組閣後早速・・・中国側との接触を試みている。・・・<しかし、>内閣書記官長・・・森<恪(コラム#4515)>は、<これに>・・・反対した。・・・外務省も犬養構想に反対した・・・。・・・<この案は、>ましてや軍当局に受け入れられる可能性がなかったことはいうまでもない。・・・
 (注14)慶大卒。ジャーナリストを経て衆議院議員。尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。また、犬養はアジア主義として右翼の頭山満と盟友関係にあった。 なお、犬養の首相就任についてのニッシュの説明は疑問。「内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた」からだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
 <1932年>2月20日、総選挙が実施された。結果は、前内閣の与党であった民政党は議席を246から147に減らしたのに対して、犬養の政友会は171から304に増やし、圧倒的多数を確保した。・・・この選挙は、国民が満州における日本の行動を是認し、民政党の慎重な対中外交に反対票を投じたことを示唆するものであった。
 <1932年>3月12日、満州国<が>・・・発足した・・・。<しかし、犬養は、満州国を承認するのを拒み続けた(ウィキペディア上掲)。>」(115~117)
→犬養は、首相就任時、76歳であり、若き日のアジア主義者としての支那観が、様変わりしていたところの、最新の支那事情の理解を妨げていたのでしょう。満州問題を犬養案で解決することなど、実現可能性があるわけがなかったのです。
 なお、外務省が犬養案に反対したのは、駐仏大使の芳沢謙吉が帰朝して1932年1月14日に外相に就任するまで、犬養首相が外相を兼務していたところ、(田中義一内閣の時もそうだったわけですが、)外務省出身者以外が外相の職務を行うこと自体好ましくないのに、外務省をはずす形で外交が展開されることなど耐えられない、という程度の低次元の理由であったに違いない、と私は考えています。(太田)
 「<満州事変に対し、国民政府は>民間の日貨排斥という手段に訴えた。・・・在上海日本人居留民団の間では、危機感が高まっていた。・・・<1932年>1月18日、・・・仏教僧と信者の一行が・・・タオル工場の中国人労働者の投石を受け、僧ら2名が死亡した。・・・この襲撃事件は陸軍が唆した謀略であった可能性がある。この殺戮への報復として、日本人居留民団はタオル工場を襲撃・・・した。・・・上海市長・・・は謝罪と賠償に関する要求は受諾した<が、>・・・排日団体の解散・・・要求の受け入れには難色を示した。・・・塩沢幸一<(注15)>第一遣外艦隊司令官は・・・<日本の上海>総領事が中国側の保障に満足すると宣言した<にもかかわらず、>・・・海軍陸戦隊<を>上海に上陸<させ>て日本側担当区域の警備につ<かせ>た。翌日、<海軍>機が上海空爆を行った。
 ・・・<そして、>日中両軍間に武力衝突が勃発し<た(注16)>。」(117~118)
 (注15)1883~1943年。海軍兵学校入校1番、卒業2番。同期に山本五十六、吉田善吾、嶋田繁太郎がいるが、彼らより1年早く、同期トップで大将に昇任。最後は軍事参議官。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E6%B2%A2%E5%B9%B8%E4%B8%80
 (注16)上海事変である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
 「この上海事変の引き金となった日本人僧侶襲撃事件であるが、現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。これは当時、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)が東京裁判(極東国際軍事裁判)において、自ら計画した謀略であったと証言している<(コラム#4534)>ためである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 「犬養内閣の世界恐慌への対応は、他のいずれの国よりもおそらくうまくいっていた。また、<同内閣は、>満州での戦闘にも終止符を打ち、満州建国を許す<(注17)>ことによって危機を解消した。・・・上海問題について<も>、同内閣は撤兵を約束することによって決着をつけ、日本が満州に専心できるような状況を創り出した。しかし、これらの善意から出た行為が大きな憤慨と抵抗をかきたてる結果を招いた。・・・
 <五・一五事件(コラム#4515)が起こり、犬養>首相<は>暗殺<されるのである。>」(121~122)
 (注17)ただし、日本が満州国を承認したのは、次の齋藤實内閣の時の1932年9月15日、日満議定書調印によってである。
http://www.c20.jp/1932/09mansy.html
(続く)