太田述正コラム#4621(2011.3.16)
<ニッシュ抄(その9)>(2011.6.6公開)
「1937年の夏は日本にとって期待がもてそうな材料に乏しかった。日本人が中国から送ってくる報告には、西安事件後の自信に満ちた抗日共同戦線が形成されつつある兆候が記されていた。また、蒋介石釈放の背後でソ連が一役演じていたという証拠や、ソ連はまた新統一中国にあらゆる援助を与えることを計画中であるという確かな情報も寄せられていた。ほとんどの観察者にとって、これらは国民党とソ連と中共の三者間のある種の取り決め同然とみなされた。8月21日、南京政府はソ連と不可侵条約[中ソ不可侵条約]を締結した。日本の情報関係者は、コミンテルンの工作員が中国のあらゆる階層に浸透して、全国各地の社会組織を破壊している証拠をつかんでいると主張した。駐華日本大使はなおも国民党の反共派と一致点を見出そうと試みていたが、時の潮流は逆転しつつあったように思えた。」(173)
「日本のナショナリズムは、日本の産業的、軍事的優越意識に基づいていたが、共産主義に対する激しいイデオロギー的な憎悪も含んでいた。そして、このような感情が、中国に対処するときの関東軍に使命感を与えていた。国内の政界では、中国に関する政策決定が中心課題となったときには、軍部が取り仕切るという気分が濃厚であった。」(177~178)
→「国内の政界」とは、すなわち世論と言い換えてもよいでしょう。
当時の日本人は、日本が、東アジアにおいて、このように厳しい状況の下でも、人間主義的観点からの対赤露安全保障戦略を成功裡に遂行することが依然可能である、と思っていたのです。
英米さえ足を引っ張らなければ・・。(太田)
「防共協定<には>・・・1939年2月には満州国とハンガリーが加入した。1937年の12月には日本によって承認されていたフランコのスペインも、1939年3月にドイツと友好条約を結び、その1ヶ月後に防共協定に参加した。・・・満州国とハンガリーとスペインを周辺に廃して日独伊三強国を核とする、一つの世界新秩序が出来上がっていたのである」(192~193)
→日本としては、どうして防共協定に英米、とりわけ英国が加わらないのか、と切歯扼腕していたのでしょうね。(太田)
「アムール河(黒竜江)の島をめぐる事件[乾岔子事件<(注19)>]が1937年の夏に起こった。日本は、島は満州国に属するものであり、ソ連の占拠は不当であると主張した。陸軍中央部の承認なしで、言質の司令官たちはアムール河上のソ連艦船と交戦に入ったようである。関東軍の名で行われたこの戦闘を、中央部は停止するように命じた。・・・」(193~194)
(注19)ニッシュは英語文献に拠っているようだが、日本の官報(外務省)に拠る日本語ウィキペディアでは「ソビエトの砲艦三隻が乾岔子水道の南側に侵入すると突如満州国領の江岸にいた日本と満州国の兵に向って発砲したため日本軍・満州軍も自衛の為やむを得ず応戦し、ソビエト砲艇一隻を撃沈し、別の一隻に大損害を与えた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E5%B2%94%E5%AD%90%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
となっている。
「翌年の夏には張鼓峰事件が起こった。・・・<更に>1939年<には>・・・「ノモンハン戦争」<が起こった。(コラム#3774、3776、3778、3780、3782)>」(194~195)
「<1939年>8月23日、独ソ不可侵条約の調印が発表された。・・・
すでにノモンハンの敗北と中国における持久戦とによって士気の低下していた日本は、この新展開を過酷極まりない一撃と感じ・・・<これを>防共協定違反と解釈して、強硬な公式抗議を行<った。>」(197~198)
→日本にしてみれば、対赤露冷戦をやっていたのに、ソ連側が何度も手を出してきて小熱戦が起こり、ついにはノモンハンにおいて、中規模の熱戦が勃発したけれど、かろうじて全面的熱戦にエスカレートしないように踏みとどまった、といったところでしょう。(太田)
「類似の立場に置かれた多くの国と同様、日本は中国戦線での手詰まりを自国の戦争指導の失敗のせいにするよりは、他の列強、特に英米の敵対行為のせいにした。日本は、兵器が香港やハノイやラングーンといった植民地の港を通して、中国奥地に根拠地をもつ国民党の手に渡っていると確信していた。それゆえ、日本の側では、ヨーロッパの植民地帝国に抗してさらに南進することによって中国問題を解決しようとする傾向が強まっていた。一方、・・・7月26日、アメリカは1911年の日米通商航海条約を廃棄する意思を通告した。これによって、通告の発効後、石油や銅や鉄のような戦争に使われる物資の対日輸出を禁止する権限がアメリカ政府に付与されることになった。日本はドイツと全面的に深くかかわることを控えているけれども、海外では依然としてドイツの仲間とみなされているという、背筋に冷気を感じさせる事実を、この条約廃棄通告は日本側に思い起こさせるものであった。」(201)
→そんな日本の足を英米は、中国国民党政府に援助を行うことで引っ張り続け、米国に至っては、経済制裁をちらつかせ始めた、ということです。
ここでもニッシュの言葉遣いが、日本に対して冷笑的であることは残念です。(太田)
「フランスがドイツに降伏した直後の1940年6月19日、米内内閣は・・仏印を通って中国へいく武器とガソリンの輸送停止を求め<、これを飲ませた。>・・・イギリスに対しても、6月24日、香港及びビルマ・ロード経由の援蒋物資の輸送を停止するよう申し入れ・・・結局<これを期限付きではあったが飲ませることができた。>・・・
ヨーロッパの劇的な事件を、米内内閣がもっと日本に有利な方向に利用できなかったということで、陸軍は、内閣から陸軍大臣を引き揚げることによって、強引に内閣を倒壊させた。」(215)
→既に何度も申し上げているように、米内首相は、帝国陸軍の対英国のみ開戦に首を縦に振らず、千載一遇のチャンスを活かさなかったのですから、内閣を倒壊させられて当然であったのです。(太田)
(続く)
ニッシュ抄(その9)
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