太田述正コラム#0016
パレスティナ紛争(その1)
パレスティナ紛争については、二つのことを理解する必要があります。
第一はパレスティナ紛争の解決は容易ではないということであり、第二は、だからといって、パレスティナ紛争をあまり重大視してはならないということです。
<パレスティナ問題解決の困難性>
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著書として有名なドイツの社会科学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)は、「人間の行為を直接に支配するものは利害関心(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしばターンテーブル転轍器として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を押し進めてきたのである。」と指摘しました(山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」岩波新書1997年18頁)。私もその通りだと思います。
ただ、いくら宗教が「理念」によってつくりだされた「世界像」を信徒に吹き込むからといって、儒教が中国文明を、ヒンドゥー教がインド文明を、そしてプロテスタンティズムが近代資本主義文明を生み出したとヴェーバーが言い出すとちょっと待ってくれと言いたくもなります。例えば近代資本主義文明ですが、これはイギリス人の生き様である個人主義の論理的帰結としてイギリスで確立したアングロサクソン文明がにほかならず、この文明の確立にキリスト教は、カトリシズム、プロテスタンティズム等のいかんを問わず、何ら関わっていないからです。(いずれこの話についても、詳しく述べる機会があるでしょう。)
話をもとに戻しましょう。冒頭に掲げたヴェーバーの指摘は、ことパレスティナ紛争に関しては、それを理解するための最良の手がかりを与えてくれます。
パレスティナ紛争は、パレスティナ地方におけるユダヤ人とアラブ人との紛争ですが、一見(物質的な)土地や(観念的な)安全といった世俗的利害をめぐっての紛争に見えるけれども、実は異なった二つの宗教、すなわち異なった「理念」によってつくり出された異なった二つの「世界像」を背景とした争いであると認識しないと、なぜ解決が困難なのか理解できないからです
パレスティナ紛争が、異なった人種ないし民族間の世俗的利害をめぐっての紛争というよりは、二つの宗教の信徒の間の紛争であると言うわけは、ユダヤ人とはまさにユダヤ教徒のことであり、アラブ人とはイスラム教秩序の下で暮らすアラビア語を話す人々のことでその圧倒的多数はイスラム教徒だからです。ユダヤ教の最も重要な聖典であるトーラー等(キリスト教徒によって旧約聖書と総称されるようになった)はユダヤ人の言葉であるヘブライ語で書かれていて、かつユダヤ人は選民意識を持ち、また、イスラム教の最も重要な聖典であるコーランはアラビア語で書かれていて、アラブ人はイスラム教徒の中で特別の位置を占めていること、も付け加えておきましょう。
(ちなみに、ユダヤ教の教義は旧約聖書にタルムードがプラスされたものであり、イスラム教の教義は旧約聖書にコーランがプラスされたものです。ユダヤ教の神とイスラム教の神は同一であり、両者は同根の宗教です。なお、同根のもう一つの宗教であるキリスト教の教義は、旧約聖書に、キリスト教の最も重要な聖典である新約聖書がプラスされたものです(山本七平「聖書の常識」講談社文庫1989年(原著は1980年)20頁)。)(続く)
パレスティナ紛争(その1)
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