太田述正コラム#4624(2011.3.17)
<ニッシュ抄(その10)>(2011.6.7公開)
 「ドイツは、シンガポールを日本が海軍によって攻撃すれば、イギリスを屈服させることができると考えて、日本に対してドイツの戦争努力への協力としてシンガポール攻撃を期待した。しかし、日本は三国同盟条約をドイツよりもはるかに慎重に解釈した。この段階において、ドイツは日本海軍の能力に対して日本自身よりもはるかに大きな信頼感をいだいていた。ドイツ船が拿捕したイギリス商船「アウトメドン号」から押収した文書は、イギリスはシンガポールにおける自己の立場の弱さを認識していて、同地の海軍基地を防衛する意志のないことを示唆していた。1940年12月11日、ドイツは日本にこの文書を引き渡した。しかし、ドイツが日本によるシンガポール攻撃を熱望していることを知っていた参謀本部は、文書を完全には信用せず、これを実地に検証するために東南アジアへ情報将校を派遣した。1941年2月23日、リッベントロップは、ベルリンに帰任したばかりの大島<浩(注20)>大使に対して、シンガポール攻撃は東洋におけるイギリスの本拠地を破壊することになり、アメリカの参戦を防ぐことにもなるので、日本はこの千載一遇の好機をのがすべきではないと告げた。東京においては、ウェネカー提督とオット大使が近藤信武軍令部次長に圧力をかけ続けていた。日本も好機であることは十分に承知していたが、アメリカがイギリスと共謀連係することを恐れて、ドイツの誘いに応じなかった。」(317)
 「日本を3月12日に出発した松岡は、3月23日にモスクワに到着して、モロトフ外務人民委員及びスターリン書記長と関係改善について話し合った。松岡はそのあと・・・ベルリン<で、>リッベントロップ、ヒトラーと会見した。二人は日本に、ドイツの主敵たるイギリスを窮地に追い込むためにシンガポールを攻撃するよう強く要請した。」(218)
 (注20)1886~1975年。駐独武官時代に少将、次いで中将に昇任、その後駐独大使:1938~40年2月、40年12月~45年。幼年学校、陸士、陸大。A級戦犯として終身刑。「幼少期より、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。・・・ドイツ駐在中は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、一貫して親独政策を主張した。これらのことから、アメリカのジャーナリスト ウィリアム・L・シャイラーは後年、大島を、「ナチス以上の国家社会主義者」と評している。・・・第二次世界大戦末期の1945年・・・、日本政府は駐スイス公使 阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺、大島による、なおもドイツ有利との誤った戦況報告を重用し続けた。・・・日本<の>外務省や・・・帝国海軍などでは大島を指して、しばしば『駐独ドイツ大使』と揶揄された。・・・大島のドイツ贔屓は終生続き、その晩年までヒトラーを天才戦略家と評価しており、蟄居先であった茅ヶ崎の自宅応接室にも、自身とヒトラーとが向かい合った写真が飾られていたという。また、国家の勢力拡大が最優先事項とされた当時の価値基準で測れば、ヒトラーはアレキサンダー大王やナポレオン・ボナパルトに次ぐ天才であったことを固く信じると、ヒトラー死後30年を経た後にも語っていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9
→ドイツがいかに日本に対英開戦をさせたかったかがよく分かります。
 なお、大島のようなお粗末な人物を、1938年10月8日付で予備役に編入して駐独大使に任命した、当時の首相兼外相の近衛文麿、陸相の板垣征四郎、そして、9月30日まで外相をしていてこの人事のお膳立てをしたと考えられる宇垣一成(予備役陸軍大将)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
、及び、彼を1940年12月20日に駐独大使に再任命した当時の首相の近衛文麿、及び外相の松岡洋右
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
らの責任は重大です。(太田)
 「6月22日に始まったヒトラーのソ連侵攻は、日本の考えに大きな影響を与えた。これはドイツが日本に相談せずに自分勝手に行動した第二例目であった。」(223)
→これだけ利己的に行動することを旨とするヒットラーが、日本の対米開戦の後、利他的な対米開戦(後述)に踏み切るのですから、面白い限りです。(太田)
 「日本が南方作戦を選んだとき、それはドイツの目的の一つを満たすものであった、ドイツは、ほとんど二年もの間、オット大使や大島大使さらには訪欧中の松岡外相を通じて、日本にシンガポールを攻撃するよう説得を試みてきた。ドイツは、ドイツ派遣航空視察団長で、のちに開戦時にマラヤ方面の司令官になる山下奉文中将にも、この進路をとるよう強く勧めた。」(244)
 「11月18日、日本はドイツに対して、・・・開戦が決定され、日米戦争が始まった場合、ドイツは参戦するか、と尋ねた。オット大使は、この請求は三国同盟の条件の範囲外にあると感じたので、ベルリンに訓令を請うた。・・・リッベントロップはただちに回答をよこして、「日本あるいはドイツが、いかなる根拠からであろうとその根拠にはかかわりなく、対米戦争に巻き込まれた場合」、ドイツは単独講和を結ばないという協定に調印する用意がある、と伝えた。このような保証は、11月21日のことと推定されるが、ヒトラーの承認を得て与えられた。・・・
 12月1日、・・・日本の指導者たち<は>、・・・理想的には、両国は同時に対米戦争に入るという取り決めをすることが、好ましいと思ったことであろう。これにはドイツも二の足を踏んだが、ムッソリーニは応諾した。そしてついにリッベントロップも、12月5日午前4時、イタリアの例に倣った。大島大使は日独伊間の単独不講和宣言に等しい表現形式の保証を受け取った。戦争が始まる約60時間前に、ドイツとイタリアは、事実上、日本の戦争に参加するという約束を文書で与えたのである。皮肉なことに、ドイツ人が日本のマラヤ攻撃と真珠湾攻撃について最初に耳にしたのは、BBC放送によってであった。予想だにしなかった真珠湾攻撃のニュースにたじろいたドイツの指導者たちは、対米宣戦布告を12月11日まで遅らせた。その日ベルリンでは、日独伊三カ国は、共同の戦争に従事し、単独講和は行わず、協力して世界新秩序を建設するという協定[日独伊単独不講和協定]に調印した。」(245)
→ドイツは、最後の最後まで日本に対英のみ開戦をさせたかったことが伺えます。
 ドイツが米国を参戦させたくなかったのは当然のことですが、ドイツは、日本が対英のみ開戦をした場合、米国は参戦しないと判断していたと思われるのです。
 また、対米英開戦にあたって、日本が、既に独立が予定されていたフィリピンの米陸軍ではなく、より米国世論を怒らせるであろうところの、米国の直轄領(当時)であるハワイの米海軍を最初に奇襲攻撃したことの愚かしさもドイツには分かっていたようですね。
 対英のみ開戦ならぬ対米英開戦、しかも対米開戦を真珠湾奇襲で始める、という政治的愚行を日本がやらかしたのは、帝国海軍が、一貫して自分達が最大の仮想敵国としてきた米国を全く分かっておらず、軍事合理性だけしか考えなかったからですが、そんな帝国海軍を善導する能力も意欲もなかった外務省もまた、厳しく咎められなければならないでしょう。
(完)