太田述正コラム#4669(2011.4.6)
<再び日本の戦間期について(その1)>(2011.6.27公開)
1 始めに
今度は、再び、お馴染みXXXXさん提供の 細谷千博編『日英関係史-1917~1949』(
東京大学出版会 1982年)からの抜粋からのご紹介です。
XXXXさんによれば、この「書は『日英交流史一巻』の前身にあたるような本です。イアン・ニッシュが『日英交流史一巻』で「日英関係がただちに断ち切れることはなかった。細谷千博教授が言うように、1920年代には広範囲の問題に関して同盟の残照が見られたと私も考えるようになっている。」(p255)と言う記述を残してますが、「細谷千博教授が言うように」とは『日英関係史』に収録されている「日本の英米観と戦間期の東アジア」を指しています。」とのことです。
2 細谷千博「日本の英米観と戦間期の東アジア」
「ウィルソン(Woodrow Wilson)米大統領によって、一次大戦後の国際平和秩序の美しい構図が描かれたとき、これを新時代の黎明として讃辞を呈する議論が日本の知識層の一部には散見されたが、総じて政府レベルでは大戦中はウィルソンの提唱した14ヵ条にさしたる関心を払わず、ウィルソン的国際秩序についての理解はまったく欠如していたといってよい。一次大戦とは日本の政治指導者にとって、中国大陸での膨張の野望の達成を一段と進め、日本の国際的地位を向上させるための「千載一遇の好機」の到来を意味していたのである。したがって、外務省内に1915年10月に設けられた「講和会議準備委員会」での検討でも、議題はもっぱら敵国ドイツからの領土割譲、利権譲渡、あるいは損害補償といった、戦勝の獲物分配的な発想にもとづくものに集中され、国際平和を永続的に保障する集団的な仕組をどのように構築するかといった観点はまったく欠落していた。」(1)
→「ウィルソン的国際秩序についての理解はまったく欠如していた」と細谷は言うが、ウィルソン的国際秩序などというものはウィルソンのタテマエ論に過ぎず、そのホンネは異なっていたと当時の「日本の政府レベル」は認識していた(後述)ようであるので、細谷がここでどうしてこのような記述をしたのか理解に苦しみます。
なお、当時の日本の外務省の事務方は、「日本の政府レベル」並みの的確な国際情勢認識を持つ能力を既に失っていただけでなく、日本の横井小楠コンセンサスについてさえ十分理解をしていなかったことから、細谷が紹介するような、低次元の議論しかできなかったのは当然でしょう。(太田)
「ところで、政治指導者レベルで、いちはやく・・・国際協調主義の新しい情勢の展開を洞察し、ウィルソン的国際秩序への理解をしめした例外的存在が、講和会議への日本全権に任命された元外相の牧野伸顕<(注1)>である・・・。18年12月8日の外交調査会の席上、彼は従前の日本の帝国主義外交を批判する意見書を提出する。・・・<そして、>今後の日本外交からは、「表裏」や、「権謀」や、また「威圧」をとり除かねばならないと指摘した後、彼は、・・・日本が経済的孤立の危険に陥ることを避ける必要を説き、国際連盟問題については、・・・積極的賛同の立場をとるべきことを唱導したのである。
当時にあって牧野のようなグローバルな視野をもち、国際協調主義の必要性を鋭く意識した政治家は少数であった。」(2~3)
(注1)1861~1949年。大久保利通の次男。大学校(後の東大)中退で外務省入省。「その後、福井県知事、茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使等を経て、第1次西園寺内閣で文部大臣、第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。・・・第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
→ここも理解に苦しむ記述です。
牧野はウィルソンのタテマエ論を額面通り受け止めていた、ということであり、やはり、的確な国際情勢認識を持ってはいなかったところの、大久保利通の不肖の息子、と言わざるをえないからです。
吉田茂は、どうやらこの岳父に私淑し、その薫陶を受けたということのようです。実際、「吉田茂<は>首相在任時にも<牧野に>度々相談している」(ウィキペディア上掲)というくらいなのですから・・。(太田)
「<それどころか、>アジア・太平洋方面での権益獲得・・・について戦勝国側、とくにイギリスが戦時中の約束を充分に履行しようとしない態度に不満の声が・・・日本の政治指導者・・・の間に強かった。たとえば、ドイツ領南洋諸島の割譲を期待していたところ、委任統治領としてこれが処理されたこと・・・とくにそれがロイド・ジョージ(David Lloyd George)英首相の提案として出されたことについては、・・・伊東巳代治<(注2)に見られるように>・・・強い反撥が見られたのである・・・。
人種差別撤廃問題についての挫折感も大きかった。しかもその要求が容れられなかった過程でヒューズ(W.H.Hughes)豪首相の反対論が大きな障害をなしていたことも、同盟国イギリスへの釈然としない気持ちを生んだ。」(3)
(注2)1857~1934年。「伊藤の秘書官として井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。・・・第2次伊藤内閣の内閣書記官長、枢密院書記官長、・・・第3次伊藤内閣の農商務大臣等の要職を務め<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E6%B2%BB
→伊東巳代治は伊藤博文のポチといった趣きの人物であり、彼の言をここでわざわざ取り上げるには値しないように思われます。
また、細谷は、人種差別撤廃問題については、米国の姿勢をこそ問題にすべきでした(コラム#省略)。(太田)
「この中で、原敬首相の態度はどうであったか。・・・19年5月19日の原敬日記には、・・・注目すべき文言がある。
「要するに<大戦の結果、独、墺、露や土といった列強が姿を消し、>世界は英米勢力の支配となりたるが東洋に於ては之に日本を加ふ即ち日本が英に傾くと米に傾くとは彼等に取りても重大なる事件なれば云はば引張凧となるの感あり。而して我国は毎々云ふ通り日英米の協調を必要とするに因り此の傾向に乗じて相当の措置を要す」
<この>原のしめした・・・見解は、同じく現実主義者である田中義一(陸将)や宇垣一成(参謀本部第一部長)ら陸軍首脳部の同調を容易にえられるものであった。たとえば、宇垣は一次大戦の終結によって、「帝国の地歩に一大展開を画すべき」時機は去り、「今や消極的に帝国の地歩を維持安固ならしむることに専心焦慮せざるを得ざる状態」と・・・しるしていた。
このような政府・軍部指導者の現状是認の立場と鋭く対立したのが、やがて30年代、政治家として、国際秩序の現状変革の旗手として華々しく登場することになる近衛文麿、中野正剛、永井柳太郎ら、正義感覚の鋭い革新若手の主張であった。近衛が一次大戦終了直後に執筆した「英米本意の平和主義を排す」と題する一文は余りにも有名である。・・・
<彼は、>ウィルソン的国際秩序への徹底した否認態度をのべる。この文章はまた、英米を一体化して、これらを現状維持勢力として対立視し、不正の内在する既成秩序を打破せんとする意欲を横溢させている点、30年代、「時代のヒーロー」としての近衛の登場と外交指導を予言するかのようである。」(4~5)
→原敬の国際情勢認識は、英米を一体と見ないからこそ、的確なものとなったと言うべきでしょう。
英米を一体と見ると、近衛文麿のようなピンボケの国際情勢認識(コラム#4276、4604)になってしまうのです。
(続く)
再び日本の戦間期について(その1)
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