太田述正コラム#4675(2011.4.9)
<トマス・バティとヒュー・バイアス(その2)>(2011.6.30公開)
 バティは、1920年代の支那について、支那全体の当局ないし統一的コントロールをする主体が存在しないことから、国際法的には特定の支那政府に着目して他国が支那の国家承認を行うことはできない、と考えていました。
 1931年に満州事変が起きると、このようなバティの考えを、国際連盟に対して日本政府が援用することになります。
 そんな支那において起こった満州事変的なことは、国際連盟規約やその他の恒久的協定や条約に違背するものではない、というわけです。
 そもそも、支那には国家が存在しないのだから、支那は、国際連盟に本件を提訴することなどできない、と(注1)。
 (注1)バティは、『国際法の規準』(前出)の中で、支那ナショナリズムや国民党政権による北伐に対抗すべく行われた山東(Shantung)省の済南(Tsinan)への1928年の日本軍の侵攻(済南事件。コラム#214、215、4378、4534)を擁護するにあたって展開した論理・・当時の支那は「記憶と待望」の中に存在する地理的表現に過ぎず、主要な政権だけで南京の国民党政権と奉天(Mukden)の張作霖軍閥政権の二つがあり、その二者間で内戦が行われていた中にあって、支那の領域は法的には誰のものでもなく、日本には、現地の日本人を保護するために支那の特定の地域に軍事介入する権利はもとより、欲すればその地域を併合する権利さえある・・を満州事変の際にも用いた。(A)
 しかし、リットン調査団の1932年の報告書は、このような日本の主張を退けます。
 そこで、バティは、この報告書に対する日本政府の反論を、事実上一人で書き上げることになります。
 また、翌1932年には、日本による満州国の承認が、日本が締約国であるところの、支那の一体性の保持を謳った1922年の9カ国条約の違反にはあたらない、という日本政府の報告書も書き上げます(注2)。
 (注2)バティは、9カ国条約は、支那に統一政府がある、との擬制に立っているではないか、との批判に先回りする形で、一、1922年当時は統一政府を目指す勢力は三つだけだったが、現在(1932年)では数え切れないくらい存在するに至っているし、二、当時は支那に統一政府が成立するのは遠くないと思われていたが、そうはならなかったどころか、現在は状況が更に悪化している、と指摘している。(A)
 この報告書の概要が帝国陸軍によってリークされ、更には全英文が公開されるところとなり、一躍バティは日本の名士となるのです。
 報告書とは、The Manchurian Question:Japan’s Case in the Sino-Japanese Dispute as Presented before the League of Nations です。
 この時の功績に対して、1936年、日本政府はバティに勲章を授与します。
 1937年に日支戦争が始まると、彼は、当時としては相当の金額である1,000円を5度にわたって、戦没兵士と傷病兵の家族のための基金に寄付をします。
 その結果、バティが1939年に70歳の誕生日を迎える頃には、英外務省は、バティを英国に不利益をもたらした人物視するようになり、英首相からのバティへの誕生日を祝する書簡の送付を行わないこととします。
 ただ、オブラスは、駐日英国大使館のサンソムのみならず、当時の大使のクレイギーまで、そのようなバティ観を抱いていた可能性が高いとしている(C)ところ、クレイギーに関しては、私は必ずしもそうは思いません。
 1941年8月には、南部仏印への日本軍進駐に対して米英が対日経済制裁を行ったことを受けて、日本政府によって在日米英人の資産が凍結されましたが、バティは、日本への功績により、その対象外とされます。
 そして、12月8日、日本が米英と戦争を始めた時、バティは日本の外務省の被雇用者として日本に留まるのです。
 戦争中にも、バティは、日本の外務省の関係団体の英語誌に論文の発表を続けますが、その中で、1943年に、彼は、1915年の対華21ヵ条要求(Twenty One Demands of China)について、「支那に対し、無秩序(anarchy)と解体(dismemberment)から救うために、実現性のある唯一の条件の下で公正な協同に誘うことを企図した」助言に過ぎなかったと指摘していますし、1920~22年頃に米国で日本の領土拡張が米国の国益と抵触するとの主張が盛んに行われるようになったけれど、当時の日本は、議会制、民主主義、普通選挙、社会政策、そして欧米化を追求していたのであって、領土拡張政策を追求していたわけではなく、1931年から日本がアジアの独立を追求するに至ったのは、日本の支那観(前出)を欧米諸国が否定し、自分達の反日的国益に即して蒋介石政権を支援するようになったからである、と指摘しています。(C)
 終戦後、英国政府はバティを反逆罪で訴追することを検討しますが、バティが老齢であること等を考慮してそれを止め、彼の英国籍剥奪にとどめます。
 そのバティを日本の外務省は再び雇用した形にして、最後まで彼の面倒を見るのです。
 
 (2)とりあえずのコメント
 オブラスは、戦争末期に書き綴られ、彼の1954年の死の後、1959年に日本で出版された著書 ‘Alone in Japan’ の中で、1939年に第二次世界大戦が始まった時、バティが、自分と駐日英大使館のベテラン館員・・ピゴットかサムソン、恐らくはピゴットでしょうね・・との間で、日英間で戦争になる可能性はないという点で意見が合致したけれど、「我々のどちらも、軍国主義者達のファジーな心情や彼等が実に日本の首根っこを押さえてしまっていたことまでは理解していなかった」と記している(C)ことから、バティは侵略的軍国主義までは支持していなかった、と主張していますが、これは、一貫してバティを雇用し続けた日本の外務省のキャリア達の帝国陸軍観に媚びたバティの筆の滑りと見るべきでしょう。
 とりわけ、オブラスが、バティが先の大戦時に日本にとどまった理由の最大のものが、日本の外務省が彼に与えていた有形無形の報酬の魅力であったとしているのはいただけません。
 バティは、自分の国際法理論に背馳することのなかった日本政府の対支政策を中心とする対外政策の正しさへの確信、そして何よりも日本への愛情、に基づき、日本に留まったに違いないのです。
 そのオブラス自身、バティの国際法理論が立脚する国際関係観・・これは日本の戦前の指導層の国際関係観でもあったわけです・・は、先の大戦以後に米国で勃興し主流となったところの、主権を持つ国民国家を主要アクターと考えるリアリスト学派(realist school)の国際関係観に近似していることを認めています。(A)
 私は、戦前の日本の、自由民主主義を掲げての対赤露抑止という、東アジアにおける国家戦略を、米国が、戦後、継受する形で採用して全球的に推進した、と指摘しているわけですが、どうやら、かかる国家戦略の前提となる国際関係観についても米国は戦後、日本(とバティ)から継受する形で採用した、と言えそうですね。
 (以上、特に断っていない箇所は、A、C、Dに適宜拠っている。)
(続く)