太田述正コラム#4683(2011.4.13)
<トマス・バティとヒュー・バイアス(その6)>(2011.7.4公開)
 1931年1月7月、スティムソンは支那と日本に覚書を送付しました。
 それは、中華民国の領域的行政的一体性や米国の支那門戸開放政策を損なういかなる支那と日本の間の合意も認めることを拒否するとともに、ケロッグ・ブリアン条約に背馳するいかなる取極も拒否する、というものでした。
 しかし、サイモン英外相の見解は異なっていました。
 日本は極東に秩序と安定を提供しているのであり、極東における巨大な資産と投資を確保すという英国の国益に照らすと、英国は秩序と安定を必要としている、よって、日本を非難するところのスティムソンの覚え書きは極端すぎる、というのです。
 この見解は、ロンドン・タイムスの一連の論説によって援護射撃を受けていたわけです。
 サイモンとロンドン・タイムスの編集長のジェフリー・ドーソン(Geofrey Dawson)とは長年の友人同士でしたし、同紙の論調は、サイモンがその一員であったところの挙国一致内閣への英国世論の支持を得るためには無視し得なかったからです。
 そのロンドン・タイムスは、サイモンによるスティムソン覚書の拒否を擁護する、バイアスによる熱き論説を掲載しました。
 スティムソンは、1936に上梓した本の中で、この時の英国との軋轢について記し、その原因として英国による自分の覚書の拒否とロンドン・タイムスによるこの覚書拒否の擁護を、英国政府と同紙が手を携えていた、とぼやいています。
 これに加えて、前述したように、カナダに至っては、日本の立場を全面的に支持していたわけです。
 これで、満州事変に関する「イギリスの、アメリカとは一線を画した対応ぶり」(コラム#4671)の背景がお分かりいただけたことと思います。
 1932年3月に満州国ができた時にも、バイアスはバティの見解に従い、諸外国は満州国を承認すべきであるとの論陣を張ります。
 ところが、バティと違ってバイアスは、日本が1933年3月に国連を脱退した頃から日本の対支政策に疑問を抱くようになります。
 1935年の手紙の中で、彼は、日本がファシズムとヒットラー主義的になってきている、と記しています。
 (以上、特に断っていない限り、Bによる。)
 このバイアスの転向については、後で改めて検証したいと思いますが、ここで、B以外の典拠に拠りながら、バイアスの日本に係る足跡をまとめておきましょう。
 バティと出会う前から、バイアスは、主権国家とは、国家を近代化するとともに、世論を糾合するための民主主義的諸制度を発展させる能力のあるところの、組織された政府を持っていることと同値である、という考えを抱いていました。
 進歩的主権(progressive sovereignty)観と言ってもいいでしょう。
 これは、バイアスの受けたヴィクトリア朝教育、彼の仕事の上での交友、日本史と日本の政治に関するそれまでの彼の読書、そして、彼のエドマンド・バーク(コラム#81、511、3148、3329、3338、3479、3830、4007、4247、4524)的哲学に関する知識、によって形成されたと考えられます。
 その彼は、バティとの交友によって、この進歩的主権観と矛盾しないところの、バティ流国際関係観を注入されることになるわけです。
 そうして、バイアスは、進歩的な日本とアジアの「病人(Sick Man)」たる支那とを対比させる形の記述を自分の書く記事の中で繰り返すようになるのです。(G)
 ところで、バイアスは、ロンドン・タイムスの東京特派員としては7代目でしたが、6代目までのうち、3名は、日本の外務省からカネをもらっていました。(注7)
 当時のロンドン・タイムスの社主のノースクリフ(Northcliffe)卿の「浄化」方針により、バイアスは、初めて日本の外務省からカネをもらわないタイムス特派員になったのです。
 (注7)それより前の特派員についても同様だが、バイアスの前任とされるジョン・ペンリントン(John Newton Penlington。1877~1936年)が、本当にロンドン・タイムスの特派員をしていたのかどうか、確認することができなかった。ただし、彼は、ノースクリフ(Alfred Charles William Harmsworth。1865~1922年)卿の創刊したDaily Mail紙の東京特派員ではあったようであり、ノースクリフ卿はロンドン・タイムスの社主でもあったことから、ペンリントンが同紙の特派員でもあった可能性は高い。なお、ペンリントンは、初めて満州を訪問した際、支那人の暴徒に襲撃されて落命している。
http://www.yushodo.co.jp/press/fareast_weekly/john_n_penlington.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Harmsworth,_1st_Viscount_Northcliffe
 バイアスは、日本人はみんな、支那人から剣突を食わされ侮辱されてばかりいると思い込んでいること、日本人は支那と友人になり、支那を指導し発展させ守ろうとしているのだから支那が敵意をもってこれらを拒否するというのは自分達を辱めていると考えていること、支那の大衆の日本に対する深い恐怖と敵意は、中国国民党のプロパガンダのよからぬ産物であるとみなされていること、そして、満州事変、上海事変、熱河作戦(Jehol campaign=Battle of Rehe)(注8)、冀東防共自治政府(East Hopei(Hebei) regime)(コラム#4008、4010)(注9)の創設、この自治政府がらみの大量密輸、等の出来事が支那人の日本への恐怖と関係があるかもしれないと示唆したことがある日本の政治家、スポークスマン(publicist)、あるいは新聞は皆無であったこと、を指摘しています。
 (注8)日本政府は、満州国の一部である熱河省の治安が乱れたので出兵したとの立場であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%98%E6%B2%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A
 しかし、英語ウィキペディアは、日本による侵略というトーンで記述がなされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Nekka
 この作戦で日本軍が勝利を収め、1933年5月31日に塘沽協定(Tanggu Truce)が結ばれ、これにより、柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。(日本語ウィキペディア上掲)
 (注9)日本語ウィキペディアは、「1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導により成立した。・・・1935年10月21日河北で・・・武装・・・民衆運動が発生し・・・た。・・・これらの民衆運動は日本側の華北分離工作に伴う支援を受けていたと言われることがある。実際に運動の背後にいくらかの日本人がいる・・・とする報告が河北省・・・から南京政府に提出されたが、日本側は関与を否定し、中国側もその証拠を見つけることができなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E6%9D%B1%E9%98%B2%E5%85%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C
としているが、英語ウィキペディアは、成立の経緯はともかくとして、同政府は、日本の傀儡政府であったとしている。
http://en.wikipedia.org/wiki/East_Hebei_Autonomous_Council
 しかし、それぞれの事情を詳細に見て行くと、満州事変そのものを是とするのであれば、それに続く一連の事件も是とするほかないはずであり、バイアスがこのように書いたのは、バイアスが転向したからこそである、と言わざるをえません。
 1941年4月、バイアス夫妻は米国に渡り、エール大学で教職を得、1942年に日本の政治についての本を上梓するとともに、東アジアで活動する米国の諜報士官達の教育訓練に携わります。
 この頃のバイアスの講義ノートを見ると、彼が日本の内部事情について暗中模索状態であったことが分かります。
 (以上、特に断っていない限り、Hによる。) The following April, Hugh and Joan
(続く)