太田述正コラム#4685(2011.4.14)
<再び日本の戦間期について(その3)>(2011.7.5公開)
「1934年に、「日本との友誼と相互尊敬の昔日の関係」を回復しようとする構想がチェンバレン蔵相、W・フィシャー(Warren Fisher)<(注10)>大蔵次官ら≪親日派≫を中心に提唱され、「日英不可侵協定」をめぐる動きとなる。・・
<この動き>と裏腹の関係で進められた、もうひとつの提携構想–中国の経済開発面での提携構想であるバンビー(Lord Barnby)・ミッション(あるいはイギリス産業連盟[Federation of British Industries]使節団)<があ>る。・・・
この計画は5月ごろからひそかにチェンバレン=フィッシャー路線のもとで練られ、日本大使館の顧問、エドワーズ(A.H.F. Edwards)が舞台裏で動き、具体化が計られていたものであった。この構想は、満州市場に関心をもつ<英>輸出業界、鉄鋼・機械業界の共感をえ、また『モーニング・ポスト』のH・グウィン(H.A. Gwynne)主筆その他の≪親日派≫の協力をえていた。松平<恒雄大使の7月の本国宛て>報告はさらに、このミッション計画は、国王ジョージ5世の「御意図を体し」、あるいは「今回の一行の行動には大なる興味を以て注意せらる趣」としるし、また皇太子ウェールズ<(注12)>も「本件に頗る熱心にして人選等に関し『サゼッション』を与へ」、また「団長選定に斡旋せられたる内情」をしるしたことは、ミッション派遣への王室の干与の動きを示唆し、注意をひく。」(16~17)
(注10)1879~1948年。オックスフォード大学で二つの学科を優等の成績で卒業しながら、インド帝国官僚になりそこね、また、健康問題で英海軍に入り損ねた後、1903年に内国歳入官試験に合格したが、16年後の1919年には大蔵次官となり、併せて、新たに設けられた、英官僚機構長(Head of the Home Civil Service)に就任、後者のポストに20年間在籍した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Warren_Fisher
(注11)Francis Vernon Willey, 2nd Baron Barnby。1884~1082年。英国の貴族にして陸軍軍人であり、下院と上院で議員、そしてロイド銀行頭取も務めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vernon_Willey,_2nd_Baron_Barnby
(注12)後のエドワード8世(Edward VIII。英国王:1936年)。後のウィンザー公。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VIII_of_the_United_Kingdom
→当時の英国と日本はどちらも自由民主主義国であったわけですが、日本の方は戦後の象徴天皇制を先取りしていたと言えるほど、君主は君臨すれど統治していなかったのに対し、英国の方は君主が依然として統治、とりわけ外交政策に積極的に関与していたことがうかがえます。(太田)
「バンビー・ミッションが来日したのは(34.9.27)、日英不可侵協定について日本政府の意向を打診するよう駐日大使に指示するサイモン外相の電報が東京に到着したのとほぼ時を同じくする。このころ、日本国内では対英接近論がジャーナリズムに見られ、伊藤正徳は「日英同盟論の擡頭」という一文を書いた(改造11月号)。
バンビー・ミッションは、東京で各方面の要人と会い、ついで満州市場の視察に赴く。在京中、このミッションに同行したエドワーズは、チェンバレンやフィシャーの密かな指示をうけた、イギリスの満州国承認を実現するステップについての具体的提案を携行しており、廣田(弘毅)外相その他に接触する。満州市場での日英協調の具体案として彼が提示したのは、満州での鉄道の輪転材料をイギリス側が供給し、また、胡蘆島築港の建設事業<(注13)>へのイギリス産業界の参加であり、そのためのクレジット供与という内容のものであった。・・・
バンビー・ミッションは帰国すると12月、報告書を公表、満州での目ざましい産業発展からうけた強烈な印象をしるし、開発が急ピッチで進む満州市場へのイギリスの資本財輸出の見込は有望との観測をのべる・・・。
1935年、チェンバレン=フィシャー路線のもとで、装いを新たにした、中国での日英提携構想がリース・ロス(Sir Frrederick Leith-Ross)<(注14)>・ミッションの極東への派遣という形で実行される。ミッションは、銀流出で重大な危機に見舞われた中国経済を幣制改革を通じて再建するという任務をもつとともに、対中共同借款という形で日英経済協力を推進し、さらに満州国の事実上の承認を国民政府をして行わしめるという、日中和解の促進をもその任務としてひそかに托されていた。・・・
35年9月、リース・ロスらの一行は、通商、中国問題での日英諒解の希望をのべた英国王から天皇への新書を携行して来日した。
リース・ロスの提案に対する日本側の反応は冷たく、とくに軍部方面ではリース・ロスの使命を、イギリスの在中国権益の擁護という観点からもっぱら把握する。結局、日本側の協力がえられないまま、中国での両国の経済提携の構想はふたたび挫折する。<(注15)>」(17~19)
(注13)「張学良の急進的な反日策(満鉄平行線建設・胡蘆島の築港・旅順と大連回収論)」
http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/youtei.html
という記述程度しか発見できなかった。
(注14)1887~1968年。英国政府経済筆頭顧問:1932~45年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Leith-Ross
(注15)「中華民国では継続していた輸入超過のための対外決済とアメリカの銀買入政策に起因する銀の海外流出のために政府系銀行の準備銀が急激に減少した。このような中国の経済危機を憂慮したイギリス政府はリース・ロスを派遣し、日本政府に対し共同で中国の銀を下支えすることで、見返りとして中国は経済安定を、日本は満州国承認を、英国は対中債務の保全を得るという腹案を日本側に提示したが、日本側では≪打ちだしたばかりの、中国国民党政府は、欧米依存より脱却せよ、接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしめよ、等を含む≫「広田対華三原則」<から>の逸脱や、軍部の華北分離工作に対する楽観論もあり、これを拒否した。リース・ロスは南京で日本を切り離した部分の合意を中国政府と取り付け、・・・実質的に元をポンドとリンクした管理通貨制度への移行と、銀の国有化、法幣の使用を強制する改革を<1935年>11月3日公表した。
辛亥革命以来、地方政権により発行された紙幣は暴落あるいは廃棄された歴史を持ち、中国民衆の紙幣に対する信用度は低く、また特に金融知識に疎い農民層における売買取引は従来からほとんどが現銀交易のみであったことから、国民政府の銀国有と紙幣の強制運用の実施は中国北部の農民に極度の不安と恐慌をもたらした。一方、中央銀行を除く全ての銀行も保有している銀の喪失、兌換不能による紙幣価値の下落と通貨不安による物価高騰、中国北部における経済の基本であった農民と都市の経済関係の断絶による経済恐慌の危険から国有化政策に反対した。この銀国有化に伴い、中央政府は地方銀行の銀を上海に移送することを命じたが、日本軍部では華北に政権を樹立しても通貨の発行が不可能になることから反発した、日本側の駐留軍は「現銀南送阻止」を図り、これに成功した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E5%AF%9F%E6%94%BF%E5%8B%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
(ただし、≪≫内は、以下による。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85#.E5.8D.94.E5.92.8C.E5.A4.96.E4.BA.A4 )
→リース・ロス・ミッションは、一、大きく、(満州国は別として、)親日圏の「接満地域たる北支方面」、中国国民党勢力圏、中国共産党勢力圏、の三つに分かれていた当時の支那において、中国国民党の支那一元的支配を前提とした幣制改革を行おうとした点に無理があった上、二、帝国陸軍が見たように、(日本を大英帝国の市場から閉め出した状態のまま、)英国の支那権益擁護を図ったという点で日本との間で権衡がとれておらず、また、そもそも、(幣原外交のせいで)日英間の信頼関係が欠如していて、平素から対支政策のすり合わせが両国間でなされていなかった中で唐突に登場した、という3点で失敗すべく失敗した、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)
再び日本の戦間期について(その3)
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