太田述正コラム#4687(2011.4.15)
<再び日本の戦間期について(その4)>(2011.7.6公開)
 「リース・ロス・ミッションの中国派遣の当初の着想は吉田茂・・・に発し、34年秋ロンドンを訪れた<ところの、(外務次官を経て1930年から36年まで)駐伊大使を務めていた>吉田<茂>
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/naikaku49.html (太田)
からこの案を聞いた<英大蔵次官の>フィシャーがこれを評価し、やがて英政府案として結晶することをしめす記録がある。・・・
 リース・ロスの提案・・・<した>中国での<日英>両国の経済提携の構想は<、(バンビー・ミッションの挫折したばかりであったが、)>ふたたび挫折する。『モーニング・ポスト』のグイン宅で開かれた<1936年4月に就任していた>吉田茂駐英大使
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BC%9D%E7%AC%AC%E5%85%AD%E9%83%A8%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8 (太田)
の歓迎宴の席上(36.7)、焦ったフィシャー、ホレス・ウィルソン(Sir Horace Wilson)<(注16)>、チレル卿(Lord Tyrrell)<(注17)>、エドワーズらとともに前外相のS・ホーア<(注18)>は慨嘆した。「支那に於ける日英提携親善増進の目的を以てされたる『リース・ロス』の派遣も遂に予期したる効果を生せす」と。
 リース・ロスから日英経済提携工作のバトンを受けとったのが吉田大使である。36年10月、10項目から成る<吉田の>具体的な提携案が、チェンバレンを経由して、英外務省に提出される。長城以南の中国の領土・主権の尊重、中国における外国権益の尊重、日英共同しての財政援助案の作成などがそこにしめされる。この「吉田覚書」の提出に<日本>政府がどれだけ干与していたのか、答は否定的のようである。「覚書」はむしろフィシャーとの合作案であり、実際の作成にはエドワーズが当ったと推定してもよさそうである。
 実質的には「吉田=フィシャー覚書」と呼びうる、この案に対し英外務省の対応は消極であり、この問題の処置をめぐる吉田の交渉ぶりには、「吉田とは何事も重要な話合いはできない」といった不信感が<英外務省>極東部内では高まっていた。「吉田覚書」はたしかに現地大使の個人プレーといった性格が強く、広田(弘毅)首相にしても有田(八郎)外相にしても、対英協調の意欲がどこまで真剣であり、また対英経済提携を本格的に進める気持があったのか、多分に懐疑的といわざるをえない。」(18~19)
 (注16)1882~1972年。英国の官僚、労働次官を経て当時は英国政府産業筆頭顧問(1930~39年)。その後、ボールドウィン首相補佐官、チェンバレン首相補佐官(首相官邸に専用室)・・1938年にチェンバレンのヒットラーとの宥和政策(ミュンヘン合意)のお膳立てをした・・を経て、英官僚機構長(前出)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Horace_Wilson_%28civil_servant%29
 (注17)William Tyrrell, 1st Baron Tyrrell。1866~1947年。祖母がインド人王族。英国官僚・外交官。外務次官(1925~28年)当時に、日本は脅威ではなくロシアが脅威であると考えていた。1936年当時は、英映画検閲委員会委員長(President of Board of Film Censors)。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Tyrrell,_1st_Baron_Tyrrell
 (注18)Samuel Hoare, 1st Viscount Templewood。1880~1959年。保守党議員。英外相:1935年(イタリアにエチオピアの相当部分の領有を認めたことが世論の不評を買い辞任)。1936年当時は無冠か海相。翌年内相。
http://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_Hoare,_1st_Viscount_Templewood
→バンビー・ミッションに関しても、「日本大使館の顧問、エドワーズ(A.H.F. Edwards)が舞台裏で動<いた>」(前出)というのですから、(吉田茂の前任者たる)松平恒雄<(つねお)>(注19)駐英大使の指示の下で動いていたとも解釈できるわけですが、「バンビー・ミッションは、東京で各方面の要人と会い、ついで満州市場の視察に赴く。在京中、このミッションに同行したエドワーズは、チェンバレンやフィシャーの密かな指示をうけた、イギリスの満州国承認を実現するステップについての具体的提案を携行して<いた>」(前出)というのですから、このエドワーズ、英国政府の対日スパイであったと断定してよいでしょう。 
 (注19)1877~1949年。元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%81%92%E9%9B%84
 日本の外務本省におけるトマス・バティ顧問の使い方・・政策決定プロセスに全く関与させない・・と比較して、出先の駐英大使館でのエドワーズ顧問の使い方は誤っていたばかりでなく、そもそも、彼をスパイと見抜けず、顧問として雇用し続けたことは、松平と吉田の大失態であった、と言うべきでしょう。
 そして、この松平恒雄と吉田茂を比較した場合、吉田茂の方にはるかに問題があったと言わざるをえません。
 松平大使は、無能で、英国政府の走り使いとして(エドワードを通じて)利用されてしまっただけですが、吉田茂が下克上的に行動したことはさておき、アングロサクソン事大主義者にして経済至上主義者たる吉田は、英国政府が食指を動かしそうな、しかし日本政府が受け入れそうもない日英提携案・・これは、かつて奉天総領事であったにもかかわらず、吉田が支那情勢を全く分かっていなかったことを意味します・・を駐伊大使の時に英大蔵次官を通じて英国政府に売り込んでリース・ロス・ミッションという徒労に終わる試みを英国政府にさせたという前歴があったからです。
 これに懲りたからこそ、駐英大使になってからの、吉田の、再度の英大蔵次官を通じての画策など、英外務省は相手にしなかったのでしょう。
 そんな思い込みが激しく夜郎自大でKYな人物が、戦後日本の基本路線を敷くことになったことは、日本にとって、まことに不幸なことでした。(太田)
(続く)