太田述正コラム#4691(2011.4.17)
<再び日本の戦間期について(その6)>(2011.7.8公開)
3 イアン・ニッシュ「イギリスの戦間期(1917~37)国際体制観における日本」
「いわゆる「石井・ランシング協定」は、・・・対日同盟関係においてアメリカをイギリスとほぼ同一の立場に置くことになった。太平洋諸島、フィリピンおよびハワイの防衛と太平洋貿易航路の保護については、日本の艦船に依存できるようになり、その結果、さし当っては太平洋上の米海軍の引き揚げが可能となった。」(47)
→この話、既出ですが、この事実上の日英米三国同盟体制が第一次世界大戦後に、事実上においてさえ継続しなかったことが極めて残念であると改めて思いますし、現在、少なくとも西太平洋において、米軍ではなく日本軍(自衛隊)がその防衛と航路の保護にあたっていないということの異常性も突きつけられる思いがします。(太田)
「中国<に関する>・・・英米協力関係は、1924年11月の大統領選挙でクーリッジ(Calvin Coolidge)が当選するや、下降線をたどるようになった。1925年の北京関税特別会議では、英米間に重大対立が生じ、1927年の南京事件、1928年のアメリカによる中国の関税自主権承認以後においては、英米はもはや信頼し合う間柄ではなくなってしまった。一方、中国問題とは関係のないジュネーブ海軍軍縮会議においても、英米は正面から対決し、日本は傍観者の立場にまわることになった。こうしたことからして、東アジア情勢における英米の協力は、期待できないように見受けられたのである。」(56)
→こういった推移を注意深く観察しているだけで、およそ英米一体論など成り立ち得ないことが分かりそうなものですが、帝国海軍はさておき、日本の外務省まで、英米一体論を明確に否定するスタンスをとることがなかったわけであり、その無能ぶりは目を覆わしめるものがあります。(太田)
「1931年9月と翌年1~2月、日本軍が満州および上海に侵入するという事態に直面した。そしてこの問題に対処するのは、自由党の代表として、1931年11月に入閣したジョン・サイモン(John Simon)外相(1931~35年)の特別任務であった。・・・
<満州事変>は、イギリスにとってそう大きな苦悩を与える問題ではなかった。満州のイギリス権益は商業権益に限られたものであり、イギリス所有の在満企業はブリティッシュ・アメリカン・タバコ社の2~3の工場にすぎなかった<からだ。>・・・
しかし<イギリスが揚子江地域に大きな政治・経済権益を持っていたことから、イギリスにとって、引き続き勃発した上海事変<(第一次上海事変=January 28 Incident)>(注20)(コラム#3969、4532、4544、4578、4614)の>・・・重大性は、満州問題に比して無限大に大き<かった。>・・・
<また、それまでは、>イギリスの中国に対する態度は・・・「中国政府は、実質的には存在しない。(名目的な)南京政府は権限がなく、崩壊寸前にある」。<という、>英外務省の・・・ある極東専門家の言葉で<代表できたが、>・・・イギリスの中国専門家たちは、上海<事変における>・・・上海周辺における中国軍の強硬な抵抗に喜びと同時に驚きを感じ、中国に新しい精神が芽生えつつある証拠であると解した。
「他の中国軍も十九路軍を見習って強硬な抵抗を試みるかもしれない。そしてたとえ組織軍隊による抵抗がすべて敗退したとしても、日本は中国全人民の反対を計算に入れなければならないだろう」。<そして、>広大な中国市場を考えた場合、イギリスの指導者たちは中国を敵にまわすという危険は犯すわけにはいかなった。」(57~59)
(注20)「1932年、上海市郊外に、・・・十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。≪上海市参事会は十九路軍、は形の上では国民党の軍隊であったものの、軍閥に他ならないと見ており、同軍に、退去させるとともに日本の陸戦隊との衝突を起こさせないよう、賄賂を送った。しかし、≫・・・1月28日午後に最初の軍事衝突が・・・日本の・・・陸戦隊・・・2700名<と十九路軍との間で>発生し<た。>
軍事衝突発生を受けて、日本海軍は・・・巡洋艦4隻・・・、駆逐艦4隻、航空母艦2隻・・・及び陸戦隊約7000人を上海に派遣することとして、これが1月31日に到着する。更に・・・2月2日に・・・第9師団・・・及び混成第24旅団・・・の派遣を決定した。これに対して、国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を・・・2月16日に上海の作戦に加>えた。
2月20日に日本軍は・・・十九路軍<への>・・・総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極め・・・<いわゆる日本軍の>肉弾三勇士・・・の戦死などがあ<った。>・・・
2月24日に日本陸軍は・・・第11師団及び・・・第14師団等を以て上海派遣軍(司令官:白川義則大将・・・)を編成し上海へ派遣した。3月1日に第11師団が国民党軍の背後に上陸し(七了口上陸作戦)、十九路軍は退却を開始した。日本軍は3月3日に戦闘の中止を宣言した。・・・
5月5日には、日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限区域・・・を定めた停戦協定が成立した(上海停戦協定≪=Shanghai Ceasefire Agreement≫)。・・・
日本側の戦死者は769名、負傷2322名。中国軍の損害は1万4326人であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
(ただし、≪≫内は、以下による。↓)
http://en.wikipedia.org/wiki/January_28_Incident
→「中国政府は、実質的には存在しない」という満州事変勃発当時の英国政府の見方は、トマス・バティ(コラム#4673、4675)のそれと全く同じですし、「(名目的な)南京政府は権限がなく、崩壊寸前にある」も当たらずといえども遠からずです。
上海事変勃発によって英国政府は、これらの見方を変更する必要はなかったのです。
なお、この事変の最中、英陸軍軍人が日本軍を支援した話を以前(コラム#3969)紹介したところです。(太田)
「<とはいえ、>イギリスにとって不都合だったのは、中国が満州問題を国際連盟に持ち込んだことである。それは、問題を英仏に対して真正面からぶっつけることになった。・・・
1932年3月11日、国際連盟臨時総会は、軍事力によって(満州)問題解決を求めるのは、国際連盟規約およびパリ条約の精神に反するという決議を行い、満州国不承認主義を宣言したのである。不承認主義がサイモンの助言によるスティムソン書簡の模倣であることは明らかであった。・・・
リットン報告書は32年10月1日に公表され・・・12月6日、報告書を基にして連盟がとるべき措置を審議するための連盟特別総会が開かれ、大部分の国は日本批判の演説をした。12月7日、サイモンは実質的にはこの臨時総会の基調演説ともいうべきスピーチを行っている。これは日中双方を全く平等に取り扱い、両者に対する毀誉褒貶も相半ばし、バランスのとれた法律論ではあったが、総会出席者たちを失望させた。・・・リットン調査団は、良きにつけ悪しきにつけ、片手落ちのない公正なアプローチをすべきことを総会に伝えようとしていたのであるが、サイモンは調査団のこの意図を演説の中に反映させたのであった。・・・
サイモンが連盟に理解させようとしたことは、日本による中国の権利侵害があるにしても、日本を国際社会の中心から失うことになってはならない、という点であったのである・・・
イギリスの対日妥協政策<がこのように>国際連盟を通じて遂行されたため、イギリスは連盟の足を引っぱっているという批判を浴びた。イギリスに対するこのような批判は、極めて厳しく、1933年2月に至ってさえ、日英秘密協定が存在しているのではないかというクレームが中国から出されるほどであった。・・・
列強の配置関係においては、日本に最も近かったのはイギリスであった。・・・それは、・・・商業的、財政的配慮によるものでなかったことは確かである<が、東アジアの英領植民地に対する日本>の復讐を招くようなことがあってはならない、という認識も確かにひとつの要素であった。このような認識は、アメリカには頼れないという認識と混り合っていた。・・・<いずれにせよ、それは、>イギリスが日本の目的、意図、動機を支持していたことを意味するもので<も>な<いのであって>、日本の野望を封じるには、日本を列強の国際社会から疎外するのではなく、その中に留め置く方がよい、と考えていたという意味においてである。イギリス政府は、このような高邁な政策を追求することにより、中国に対する純粋な同情を犠牲にし、また米国との間に誤解を生み、両国間の新しい関係を固めることに失敗したといえよう。」(59~65)
→ニッシュは、サイモン英外相、ひいては当時の英国政府の優先順位は、日本の国際社会(国連)へのつなぎとめ>東アジアの英領植民地の維持>支那における英国の権益の維持、であったと言っているわけですが、それが事実であるとすれば、英国政府は、「日本の目的、意図、動機」が究極的には対赤露安全保障という、それこそ、(日本のみならず英国等の国益にも合致するところの)「高邁な政策」であることを知らなかったか、あえてそのことから目を逸らしていたかどちらかである、ということになります。
英国政府は、当時の列強の中で最も親日的なスタンスをとったわけですが、むしろ、(カナダ自治政府のように)全面的に日本の肩を持つべきだったのです。(太田)
(続く)
再び日本の戦間期について(その6)
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