太田述正コラム#4697(2011.4.20)
<再び日本の戦間期について(その9)>(2011.7.11公開)
5 ピーター・ロウ「イギリスとアジアにおける戦争の開幕–1937~41年」
「1937年7月7日の盧溝橋事件にたいし、イギリスは当初はこの事件はありきたりの局地的な日・中両軍の小競合であって特別な重要性をもっていないと見なした。1937年8月上海でさらに苛烈な戦闘が展開した<(=第二次上海事変)(コラム#4548)>ことは、戦火が拡大の一途をたどり妥協による戦争解決の道はもはや閉ざされたことを示した。イギリス外務省の官僚たちは事態を憂慮したが、戦争が長引けば日本は経済的に行きづまり、中国は政治組織の有益な改革を迫られるであろうと考えた。・・・ネヴィル・チェンバレン・・・首相は、10月ローズヴェルト・・・大統領が問題の多い「<日独>隔離演説」<(コラム#254)>を行った直後、次のように書いている。「二人のきわめて腹黒い独裁者<(ヒットラーとムッソリーニ)>がいるヨーロッパの現状では、我々にはとても日本と衝突する余裕はない。騒々しい宣伝をしたあとでアメリカがどういうわけか姿を消してしまい、我々が非難と反感のなかでとりのこされてしまうことを私は非常に恐れている。」
イギリスは国際連盟や11月に開かれたブラッセル会議<(注26)>で日本にたいする道義的非難には賛成したが、その枠をこえることは拒否した。・・・1938年4月、イギリスが中国の海関収入を中立国の銀行よりもむしろ横浜正金銀行に預託することに不承不承ながら同意を与えたのは一つの宥和措置であった。中国はこの協定により敵側にまわされたのであり、アメリカも同じであった。イギリスとしては海関問題に関する妥協は避けがたいものであり、この妥協は少なくとも日本がさらに極端な措置をとることを防止するのに役立つと考えた。・・・1938年春、・・・フランス、ドイツ、ソ連は中国援助をイギリスより積極的に実施しつつあった。・・・<しかし、>大蔵省は借款に反対であり、チェンバレンはヨーロッパにおける時局の重大さに鑑み借款の拡大は非常に危険であると主張した。・・・<そんなところへ、日本は>1938年11~12月「東亜新秩序」<(コラム#3780、3782、4035、4355、4541、4599)>の成立を宣言した。・・・<こうしてついに、>1939年3月サイモン蔵相はイギリスと中国の有力銀行が共同で出資し1000万ポンドの基金を設置することを発表した。・・・
かつてないもっとも重大な危機は華北の貿易港天津で1939年夏おこった<(天津[租界]事件(問題))(コラム#3780、3782、3794、3970、4274、4276、4350、4392、4546、4550、4582)>。・・・<しかし、>合同参謀本部は・・・戦艦を2隻以上極東に派遣するのは地中海の放棄を意味すると報告した。・・・<そこで>経済制裁の実施を考えた。チェンバレン<首相>は経済制裁に反対の意向を表明した。・・・「・・・要するに問題の核心は制裁の実施を決定する前に、必要な際は軍事力を発動する準備を整えなければならないということである<がそれは不可能だ>」。
・・・<結局、>解決の責任はクレーギーの肩に負わされ<、彼はそれに>7月22日<、成功した。>・・・こ<れ>にたいし中国は非難し、アメリカは冷やかな反応をみせた。・・・ローズヴェルトは1911年の日米通商航海条約の廃棄<(コラム#3782、4350、4582、4621)>を日本に通告した。」(158~161)
(注26)「8月30日に支那・・・が国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると・・・提訴した。・・・国際連盟は支那への精神的援助を決議し、ベルギーのブリュッセル<(ブラッセル)>で九ヶ国条約会議が開催されることになったが、日本は参加を拒絶した。理由は、連盟の支那援助決議は支那の抗日を鼓舞し、事態収拾を困難にすること、日本の行動は支那の挑発に対する自衛行動であって九ヶ国条約違反問題は発生する余地がない上に、最近の支那における赤化勢力の浸透により当面の事態は九ヶ国条約成立当時とは著しく異なってきていること、九ヶ国条約会議参加国の大部分は連盟決議に拘束されるため公正な結果を期待できない等であった。会議は11月3日から開かれたが、イギリス・アメリカの態度が消極的で、対日制裁措置を取ることができ<ずに終わった。>」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_buryusseru_kaigi.html
→ネヴィル・チェンバレンは、は、欧州におけるファシズムの脅威に比べて日本の脅威は小さいと見た上で、対独防衛力整備の時間を稼ぐために対独宥和政策と対日宥和政策をとったわけです。
前述したように、小なりとも日本を脅威と見た点がチェンバレンの限界です。
とはいえ、英国のチェンバレン政権の日本観は、米国のローズベルト政権の日本観に比べれば、はるかにまともではあったとことは、強調しておきたいと思います。(太田)
「日本は、防共協定の締結国であるドイツが日本に協議することなくソ連と・・・1939年・・・8月22日<に>・・・不可侵条約を締結した<こと>に、激怒した。・・・バトラー(R.A. Butler)<(注27)>外務政務次官<(Under-Secretary of State for Foreign Affairs)>は、ヨーロッパ戦争開始の時点から1941年夏教育相に昇進するまでもっぱら日本問題を担当していたが、1939年9月22日次のように書いている。
「日本とソ連は仇敵であり、我々のインドやアジアにおける地位に鑑みれば、できれば日英同盟にもどることは我々にとって利益となるであろう。日米間に戦争がおきるとは考えられない。アメリカの極東における権益は大戦勃発の理由とするには薄弱である。私はアメリカを顧慮して日本を敬遠し、日本のすべての行為を信用しないことが、最終的に我々にとって利益であるとは信じない。日英同盟条約が失効するようになってからこのかた私にとっては不満足な日々である。私は今でも西方における独裁者との戦いでアメリカの支持を得、一方において日本との関係を改善することは可能だと信じている」。
バトラーは日本との妥協は結局日本の要求をさらに増大させることになるという見解には同意しなかった。「日本側にも対英関係の改善を望む人々がいると私は信じている。日本人は一度約束すればそれを守る国民であると考える」。・・・
<しかし、>フランスを降伏させたヒットラーのヨーロッパにおける圧倒的な勝利<を見て、>・・・日本の指導者たちはイギリスの敗北は目睫の間だと考え・・・た。日本はかねてイギリスの中国にたいする道義的・経済的支持に苛立ちを覚えており、蒋介石が日本との妥協という賢明な道をとらないで戦争を続けているのはそのためだと考えていた。・・・日本の立場から云えばイギリスを説得し、または強制してでもビルマ・ロードを閉鎖させることは絶対必要であった。・・・1939年3月から1940年3月までの間に、約700万ポンドの武器・軍需品がラングーンを経由して中国に再輸出された。1939~40年においてはアメリカとソ連がこれら物資の主要供給国でイギリス連邦からのものは4%にも達しなかった。1940年6月中旬、日本陸軍省はイギリス駐在武官にビルマ・ロードを直ちに閉鎖しなければ武力衝突がおこるであろうと通告した。日本外務省もより丁重にではあるが同じ趣旨をクレーギーに伝えた。・・・<チャーチル新>戦時内閣は最初強硬路線に傾いたが、のち方向を転じ・・・た。新首相チャーチルは「現在の情況のもとで、主として威信のために日本の敵意を招くようなことはすべきでないと考え」たのである。・・・<しかし、>アメリカ<は援蒋路であった>ビルマ・ロード<(コラム#2982、3771、3794、3968、4134、4276、4394、4621)>の閉鎖に反対<だっ>た。・・・<そこで、>クレーギーはビルマ・ロードを3ヶ月間閉鎖し、その間、日本が中国との和平達成に懸命に努力することを期待するという解決案を意図した。・・・7月17日<英日両国は合意に達した。>」」(162~163)
(注27)Richard Austen Butler, Baron Butler of Saffron Walden(Rab Butler)。1902~82年。インド生まれ。ケンブリッジ大学で19世紀フランス史の講師(don)を務めた後下院議員。外務政務次官時代、チャーチルに対して強い警戒感を持っていたため、上司のハリファックス外相(貴族)がチェンバレンの後の首相になるのを望んだが実現しなかった。戦後、蔵相、内相、外相、副首相を歴任。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rab_Butler
→この時期のチェンバレン内閣の外交当局
http://bit.ly/fJDIuY
は、以上見てきたように、チェンバレン首相自身は日本小脅威/日本宥和派、ハリファックス外相はチェンバレンと同じ(コラム#1894、3511)、バトラー外務政務次官は日本非脅威/日英同盟復活派、カドガン外務事務次官は日本大脅威/日本敵対派、という布陣であったわけです。
当時の親日英国人として、クレイギー、ピゴット、バティに加えて、バトラーについても我々は忘れないようにしたいものです。
それにしても、1939年~40年の時点で、米国ともども、ソ連も、日本の交戦相手の蒋介石政権を積極的に支援していて、日本に対して事実上開戦していた、と見てよさそうですね。チェンバレン内閣の今一つ煮えきらなかった対日政策には切歯扼腕の思いがします。(太田)
(続く)
再び日本の戦間期について(その9)
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