太田述正コラム#4699(2011.4.21)
<再び日本の戦間期について(その10)>(2011.7.12公開)
 「バトラーは日英協調の構想を進めた。・・・極東においては二つの展開が選択できるように見える。・・・米・日・英が連係して条約を結び、極東の秩序と中国の独立を確保するか、あるいは日本をして欲望の赴くままに『獲得政策』を続行させ、アメリカ及び我々と衝突にいたらせるかのいずれかである」。・・・
 <しかし、>日本軍の大兵力が単に国民政府軍から奪取した占領地を維持するためにのみ中国に釘付けされている、これらの日本軍はもし中国から解放されれば東南アジアに配置されるので、それではなんらの進歩もないというのが外務省の到達した結論であった。・・・
 1940年7月下旬、合同参謀本部は・・・日本は今や中国の全沿岸を支配している。・・・マレーは直接陸・海・空から脅威をうけとるようになった<と判断した>。・・・・<ところが、>チャーチルは・・・日本の力を理解せず、シンガポールは難攻不落の要塞との信念を執拗に抱き続けた。」(164~166)
→「日本<が>欲望の赴くままに<支那>『獲得政策』を<行っている>」というのはバトラーの、頭の固い英外務省部内等をを説得するにあたっての方便でしょうね。彼が、本当にそう思っていたのなら、そもそも、日英同盟の復活や米日英連繋を追求するわけがないからです。
 なお、チャーチルの愚かさについては、これまで累次申し上げてきたところです。(太田)
 「1940年9月、フランスのヴィシー政府は日本の圧迫に屈服し、日本軍の北部仏印への進駐を承認した。同時に日本はドイツ・イタリアとの三国同盟に調印した。日本の指導者は三国同盟によってアメリカが軍事介入にでるのを阻止できると期待した。しかし結果は逆であった。ナチス・ドイツと結んだ日本の行為はローズヴェルトやハル・・・に敵愾心をおこさせた。イギリスは(「バトル オブ ブリテン」)の挑戦を切り抜け以前より幾分有利な立場になった。イギリス戦時内閣は、日本が東アジアの平和の回復に失敗したことを表面上の理由として1940年10月ビルマ・ロードの再開を決定した。・・・ローズヴェルトは・・・<英国等への>武器貸与計画<を>議会に提出<し>、1941年3月承認を得た。・・・
 近衛(文麿)公爵が1940年7月第二次内閣を組織すると松岡洋右が外務大臣に任命された。・・・松岡はチャーチル、イーデン(1940年12月ハリファックスに代って外相に就任)それにクレーギーからも全く信頼されていなかった。・・・チャーチルはかねて敬意をもっていたロンドン駐在の日本大使重光葵を呼び、・・・イギリスは中国において一貫して中立政策をとっており、日本が三国同盟に固執しているのは非常に遺憾であると主張した。・・・」(166~168)
→既に日本は、対英だけ開戦の最適の時期を逸したわけですが、なお、ビルマ・ロードの再開をとらえて対英だけ開戦をすべきであったと痛切に思います。
 なお、クレイギーの松岡観はそんなに単純なものではなかったというのが私の考えです(コラム#3964)。(太田)
 「1941年にはイギリスはついに日本との対決で主役を演じることはなくなった。・・・
 イギリス戦時内閣は・・・アメリカ<が決定した>在米日本資産の凍結、日本からの全輸入品の許可制、石油輸出の制限<のような、日本に対する>徹底的な制裁政策には元来疑念をもって<おり>、・・・軍需相のフレデリック・リース・ロス・・・卿は・・・参謀本部は未だに日本との衝突を延ばす必要を勧告して<いるではないか、と指摘したが、>・・・今や<米国によって>表明された強硬な対応策に追随することを重視するにいたった。・・・もしアメリカとイギリスが太平洋戦争の最初の段階で日本が与える破壊の大きさを正確に評価していたならば、あのような厳しい措置はとらなかったと推測するのが妥当であろう。・・・
 チャーチルはワシントンが見せた、強硬な対決ぶりを歓迎した。しかし彼はさらに強硬な政策をとられることを望んだ。・・・
 <11月末に日本に手交されたハルノート>は日本のこれまでの政策の完全な破棄を要求するものであった。イギリス政府にとって全く驚くべき事態であった。イギリスは日米交渉の詳細をよく知らなかった。・・・イギリスは日本がアメリカ領土への攻撃を自制して、イギリスやオランダの領域のみを攻撃した場合、なんら支援をうける約束をとりつけていなかった。・・・
 1941年12月初め、ワシントン駐在の<前英外相たる>ハリファックス大使はローズヴェルトと数回にわたる重大な会談を行った。12月1日<、>長い、散漫な会談のなかで、ローズヴェルトはさりげない態度で、チャーチルが長い間望んでいたイギリス支援の約束を与えた。ハリファックスは次のように報告した。「・・・もし日本がイギリスの領土を攻撃した場合、「イギリスは確実にアメリカの援助を期待してよい。しかしここでは政治的な形式を整えるために短い時間–彼は2、3日と云った–がかかる」。ハリファックスはそのあとイギリスがクラ地峡<(注28)>を確保するための作戦を実施する場合、アメリカの支援を期待し得るかと質問した。ローズヴェルトの返答は肯定的であった。」(168~173)
 (注28)Kra Isthmus。東のタイランド湾と西のアンダマン海に挟まれてマレー半島の最狭部を形成しているタイ領(最狭部は西端がミャンマー領)の陸地(地峡)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E5%9C%B0%E5%B3%A1
→ピーター・ロウがダッチロール気味であることにお気づきですか? 
 「チャーチルはワシントンが見せた、強硬な対決ぶりを歓迎した。しかし彼はさらに強硬な政策をとられることを望んだ。」で、当時の英国の対日政策は尽きています。チャーチルは、何がなんでも日本に対米英開戦をさせたかった、ということです。ロウとしては、チャーチルを何とか弁護したいという気持ちがあったのでしょうね。
 なお、ハリファックスが取り付けたと称するローズヴェルトの言質は、米国による対日武力行使の約束であるとは言えません。
 「支援」には非軍事的な支援もありうるからです。
 そもそも、米大統領には、議会の同意なくして個別的自衛の範囲を超えて軍事力を行使する憲法上の権限がありません。(条約や国連決議は憲法に代わるところの、軍事力行使権限を大統領に与え得ますが・・。)
 英国自身も、(この場合は、自国に憲法がないこともあるのでしょうが、)自分が旧宗主国であるとはいえ、また一応同じアングロサクソンであるとはいえ、米国のことが意外に分かっていなかったと言えそうです。(太田)
 
 「日本のマラヤ、パール・ハーバーへの攻撃が実施されるまで、アメリカやイギリスの政治家や軍の首脳たちが日本を非常に過小評価した理由は未だに謎である。日本陸軍の効率の良さや勇敢さは理解されていなかった。零式戦闘機の優秀なことも認められていなかった。海軍の能力の高さも充分評価されていなかった。少数のイギリス官憲が正確な警告を提供していた。1940年から41年に東京に駐在していた陸軍武官などはその顕著な例である。しかし彼等の証言は無視された。対立する国家の力を測定するのは情報機関、参謀本部、外務省の不変の基本的な任務だが、それが異常なまでに無力であったことについて納得ゆく説明が一つもなされていない。無知、ほかの戦場への圧倒的な関心、生来の人種的優越感、1941~42年に日本を押えようと努力した各軍の統合の問題、これらが結合して失敗の原因となったと思われる。」(174)
→ロウは、あれこれ並べ立てていますが、英国の一部と米国における「生来の人種的優越感」に尽きるでしょうね。(太田)
(完)