太田述正コラム#4701(2011.4.22)
<先の大戦直前の日本の右翼(その1)>(2011.7.13公開)
1 始めに
 XXXXさん提供の、永井和「1939年の排英運動」(近代日本研究会『昭和期の社会運動』山川出版社 1983年 収録)を俎上に載せたいと思います。
2 先の大戦直前の日本の右翼
 「民間右翼<の間で>・・・「権力奪取(クー・デター)→国家改造」・・・の幻想が大幅に収縮してしまった二・二六事件以降・・・の右翼に関する研究は<1983年時点で>漸く本格的に始まったばかりであり、二・二六以前期の研究に比べればまだまだ蓄積が少ない。・・・
 <特に>1939年の排英運動・・・に関する先行研究は、伊藤隆氏が概観的に取上げている外はまったくない、といってよい状態である。」(191~192)
→恐らくは、その後もこの種のテーマについて、「本格的」な研究は日本で行われていないように思われますが、一体日本の現代史家は何を「研究」しているのか不思議でなりません。
 というのは、後述するように、この種のテーマの研究は極めて重要だからです。(太田)
 「侵略的帝国主義の傀儡なる南京国民政府は亜細亜解放の先駆者たる日本の実力完成を恐怖し、左にソビエットロシアと握手し、右にイギリス資本主義を背景として今や敢然として我に挑戦し来った。(時局協議会「北支事変対策懇談会」37.7.12)・・・
 支那事変は日支両国間の国民的戦争にあらず、また国民党とその軍隊に対する膺懲戦たるに止まらずして、実に南京政府の背景をなす英ソの侵略的勢力に対する東亜防衛戦たり、亜細亜解放戦たるの史的意義を有する。(青年アジア連盟 37.10.28)・・・
 対支問題の抜本塞源的解決をなさんと欲せば、これ等東亜平和の攪乱者たるソ連及び英国の東洋侵略の魔手を徹底的に打破せねばならない。(純正日本主義青年運動全国協議会<純協> 37.8.1)・・・
 畢竟対支問題の根本的解決とは対ソ対英戦争の誘発を不可避とするものにして、即ち世界第二次大戦を覚悟しなければならない。(純協 37.8.1)
 以上要約すれば、右翼の戦争観は日本を「解放勢力」と規定し、抗日中国を「英・ソの傀儡」とみる<自己<対>敵イメージ>を基礎としており、日中戦争をもって「英・ソ勢力の東アジアからの駆逐撲滅」のための戦争と捉える「聖戦論」であり、「世界戦争不可避論」がその論理的帰結であったと規定できるであろう。このような戦争観は、日中戦争の全面化がほぼ明らかとなった37年7月半ばの段階から既に右翼の一部でまとまった形で提起されており、またまくまに右翼全体に共通の認識となったのである。いや、たんに右翼勢力のみならず、広く国民一般に流布され、受けいれられるのであった。」(193~195)
→永井がはからずも(?)もらしてしまったように、右翼の(わけの分からぬ)国体観ではなく国際観を語るということは、当時の世論の国際観を語ることとほぼ同値なのであり、言うまでもなく、当時歴とした自由民主主義(的)国家・・少なくとも当時の英国に比べても(女性参政権を除けば)より自由民主主義(的)国家・・であった日本においては、世論の国際観は政府の対外政策を規定したはずであることから、世論の国際観を研究することは重要であり、従って、その代用物として右翼の国際観を研究することも重要である、ということになるのです。
 どうして、それが左翼ではなくて右翼でなければならないのでしょうか。
 それは簡単な話であり、日本には階級対立など存在しないところ、左翼は階級対立の存在を前提とするので、「民間右翼」という言葉が象徴しているような、前衛が大衆を率いるところの大衆運動を、「左翼」が当時の日本で展開する基盤が欠如していたからです。
 マルクス・レーニン主義のヨコ書き文献をタテに翻訳してご託宣を垂れる一部インテリの間でだけ棲息していたのが、当時の日本の「左翼」であった、と言ってよいでしょう。 (左翼を括弧の中に入れるのなら、厳密に言えば、(左翼がなければ成立しえない)右翼の方も括弧の中に入れなければならないのですが・・。)
 江戸時代を振り返ってみれば、権威と権力と富の所在は分かたれ、それぞれ、公家、武家、町民によって分有されており、権威と権力と富の三つを独占する支配階級とその三つともに縁のない被支配階級が分立、対立する社会では、当時の日本はありませんでした(コラム#省略)。 それが、明治維新後のアングロサクソン流資本主義の導入により、擬似的な階級対立が日本で生じたかのように見えたところ、昭和期に入ると日本型政治経済体制の構築に伴い、再び日本は階級対立のない社会へと急速に回帰しつつあったのです。
 永井自身、このことを、「最近私は「30年代の政治過程の根本的動因としてより重視すべきは、『帝国主義の危機→戦争』という対外的契機のほうであって、『階級矛盾の激化→革命的危機→反革命』という国内的契機ではない」と、「対外的契機こそ主動因とみる」立場、言いかえれば「対外路線上の対立を以て政治過程を規定する主要軸」と考える立場に立つことを明らかにした。」(192)と、マルクス主義的な言葉遣いで、小むつかしく述べているところです。(太田)
 「ところで「直接の敵」の背後に二つの異なる「真の敵」を想定するこのような戦争観は、その本質上、単一な一元論のままにはとどまりえぬ性格をもつといわねばならない。なぜなら「真の敵」を二つ設定しているからである。・・・
 「防共派」・・・<ないし>北進<派>・・・の典型例としては建国会をあげることができる。・・・一方、・・・「排英派」・・・<ないし>南進<派>・・・であった組織としては、大アジア協会及びその系列下の青年アジア連盟や東方会をあげることができりょう。・・・
 戦争の始まる前後においては、大半の右翼組織は「防共・排英派」であ<り、>・・・日本の伝統的右翼の標準タイプとみられる大日本生産党及びその系列組織<がそうだ。>・・・
 右の点を踏まえたうえで、盧溝橋事件から1939年秋までの、すなわち独ソ不可侵条約と第二次ヨーロッパ戦争開始までの時期における右翼の戦争観及び対外戦略論の変化の一般的傾向について、私なりの仮説を提出すれば、それは「防共<派>」から・・・「排英<派>」への転移過程であったという主張に要約できる。・・・
 独ソ不可侵条約の成立によって・・・「ソ・英」はもはや一体ではなくなり、「連ソ反英」という。それまではおよそ考えられなかった方向選択が現実性を帯びるようになったからである。」(195~199)
→世論(右翼)に最も近く、世論(右翼)との間で最も密接に対話を行っていた当時の政府機関が帝国陸軍である、と私がかねてから指摘していることはご承知の通りです。
 その帝国陸軍は、横井小楠コンセンサスの下、政府の一員として、当然「防共派」、しかも徹底した「防共派」であったわけですが、元来、政府部内で最も「親英派」でもありました。
 その帝国陸軍が、英国が反日へ転換するにつれて「排英派」に転じていき、1940年には対英(のみ)開戦を主張するところまで行くわけです。
 それは、「防共派」としての防共目的達成のための手段として、英国への対処ぶりが遷移した、いや遷移せざるをえなかった、ということにほかなりません。
 そのようにとらえれば、永井が、やはり小むつかしく指摘するところの、世論(右翼)の対外路線の遷移も、すとんと腑に落ちる、というものです。(太田)
(続く)