太田述正コラム#4703(2011.4.23)
<先の大戦直前の日本の右翼(その2)>(2011.7.14公開)
以上のように割り切れば、永井が展開するところの、先の大戦直前の日本の右翼の動向を詳細にフォローすることに全く意味がないことから、適宜、興味深い論点をとりあげる形で進めて行きたいと思います。
「石原莞爾・・・<は>満州事変の首謀者(つまり日中戦争の原因を作った人物)であり、その当時は明らかに右翼一般の「聖戦論」に通ずる発想に与しておりながら、また右翼の「世界戦争不可避論」と相通ずるところの多い「世界最終戦論」の主唱者でありながら、盧溝橋事件に際しては不拡大派の中心人物としてふるまい、そのために陸軍中央を追われ、しかも陸軍中央を追われて後も日中戦争の早期終結を唱え、野放図な戦争拡大論に批判的でありつづけた人物だった・・・。
<他方、>右翼・・・の考えは、石原なきあとの陸軍中央の「戦争指導計画」(ある意味でこれは「石原構想」の修正版といえるが)–「当面の対支持久戦争を指導しつつ速に昭和軍制の建設及国家走力の増強整頓を強行して対『ソ』支二国戦争準備を完成す」(参謀本部第二課第一班、38.1.20~30)と基本的に一致して<いた。>」(200~201)
→この戦争指導計画は、戦争中の支那に関して「戦争準備を完成す」と言っている点、できの悪い文書であることはさておき、陸軍中央は、ソ連に関しては、あくまでも戦争準備、すなわち対ソ抑止を追求していたのであって、対ソ戦争を企図していたわけでは必ずしもないことに注意が必要です。
いずれにせよ、私が何度も述べているように、「陸軍≒右翼≒世論」であることがここからも認識できます。
永井は、別の箇所で、「日中戦争とともに一般の対英認識がどのように変化していったかは、それ自体検討を要するテーマであり、今のところ私には大雑把なことしかいえない。内務省などの当局の取り締まり方針と関連させつつマス・コミ、ジャーナリズムにおける対英言論の変化を分析することは興味深い問題であるので、今後の課題としたい。」(223)などと寝ぼけたことを言っていますが、自由民主主義下の当時の日本の世論があたかも「当局」の操作対象であるかのような彼の口吻には抵抗感を覚えますし、そもそも彼は、右翼≒世論・・しかもこの場合の「≒」は、陸軍≒世論の「≒」よりもはるかに「=」に近い・・という事実に目をつぶり、直接世論について研究対象とすることを避け、右翼の研究でお茶を濁した、あるいは右翼の研究に逃避した、という誹りを受けても仕方がないでしょう。(太田)
「石原をして「転向に導いたものは何であったか。これを戦争観との関わりで指摘するならば、「中国認識の転換」に求められよう。陸軍主流・右翼一般の「並行論」の基礎には「対中戦争遂行と対ソ戦争準備とは両立可能」というテーゼがあり、そのテーゼを支えていたのは「中国との戦争は日本にとってそれほどの負担となりえない」という、はなはだ相手を低くみた対敵(対中)認識であった。
・・・石原の対敵(対中)認識はこれとは大きく違っていた。「仮りに蒋介石が斃れたとして支那4億の人間は屈服するか。私はこれはだんじて屈服しないと見て居ります」(38.5.12)–橋川文三氏が評価するように「この石原の意見は当時として抜群の考えであった」が、このような対敵認識からは「対中戦争と対ソ戦争準備は両立可能」といった議論は絶対に出てこないのである。・・・
このような<右翼の>論にあっては、石原が本気で頭を悩ませた問題、すなわちこの中国ナショナリズムを如何にすれば「軍国日本」の「味方」に転化させることができ、もって戦争を終結に導くことが可能となるのか、という難問などそもそも初めから問題にもなりえない。」(202~203)
→私の石原莞爾論は以前述べたところ(コラム#4077)に譲るとして、ここで問題にしたいのは、やはり永井その人です。
当時の「陸軍主流」の「テーゼ」は、対赤露抑止を目的としており、そのため、論理必然的に、彼らは、その手段として、策源地たる満蒙等の後背地域である支那における親日政権樹立を追求せざるをえなかった、というのが繰り返しになりますが、私の認識です。
永井の言うような、「対中戦争遂行と対ソ戦争準備と<の>両立」が可能とか可能でないとか考える贅沢など、当時の「陸軍主流」には許されていなかったということです。
なお、永井自身、別の箇所で、「・・・「満州国」<の確保>と華北資源の優先利用権とを不動の前提とした上で、・・・<それと>日中間<の>「平和で友好的な提携」・・・の両立可能性を信ずる石原よりも、戦争に訴えなければ問題は解決できぬと考えた<陸軍主流や右翼なる>戦争拡大派のほうがある点では現実に即していたといえよう。」(205)と婉曲的にそのことを認めてしまっているところです。(太田)
「「排英」を自己の基本課題と考え、「英帝国主義打倒・英勢力のアジアからの駆逐」を運動のメイン・スローガンに掲げた、おそらく最初の団体ではないかと思われる青年アジア連盟の活動開始が<37年>10月半ばであり、10月末には在東京の「山本悌二ろう、今泉定助、建川美次、小林省三郎、頭山満、俵孫一、清瀬一郎等政界の一部有志及国家主義陣営有力者32名」によって対英同志会が結成された。この二事をもって、固有の意味での反英運動の登場を象徴する出来事とみなしうる。・・・
<その背景であるが、>9月28日に国際連盟総会で対日非難の決議が採択され、10月6日には九国条約」会議招集決議が可決されている。・・・第一次反英運動のピーク<は>37年11月、つまりブリュッセル会議<(コラム#4697)>の開催期間とほぼ一致する・・・。・・・
ここで注意すべきは、<ピーク時においては、特に>九州・山口方面の運動に<おいて、>・・・右翼のみならず「市会、郷軍分会、新聞社」などの〈非右翼的要素〉あるいは〈一般市民的要素〉の関与がみられる<こと>である。
他の国ではなく、イギリスが主たる標的に選ばれたのは、イギリスこそ国際連盟・九国条約国の中心的存在だとみられていたからであり、さらに東アジアに多大の利害関係を有し、中国国民政府とも因縁浅からぬ関係にあったがゆえに、東アジアに関係を有する西洋列強の代表とみなされていたからである。
ブリュッセル会議にはアメリカ合衆国も参加していた。また10月5日にはルーズヴェルト大統領が有名なシカゴ演説<(日独隔離演説(コラム#254、4697))>を行なっている。にもかからわず、反英運動は生じても反米運動は生じなかった。・・・なぜそうなるかは、はなはだ興味深い問題であ<る。>」(206~208)
→「政界の一部有志」だの「非右翼的要素」、「一般市民的要素」、すなわち世論、が「右翼」と一体となって活動していたことを永井が認めてしまっていますね。
なお、「反英運動は生じても反米運動は生じなかった」のは、右翼≒世論にあっては、英米一体論が流布していたからだと私は思います。
(続く)
先の大戦直前の日本の右翼(その2)
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