太田述正コラム#4711(2011.4.27)
<先の大戦直前の日本の右翼(その4)>(2011.7.18公開)
「37年秋からの第一次反英運動は年を越すと鎮静化に向かい、翌年2月にはいちおう終熄する。・・・イーデン外相辞任後のイギリス外交の路線修正・・・ヨーロッパにおいてのみならず対日政策においても宥和的傾向が強まり(38年3月上海共同租界工部局<(注1)>問題での譲歩、5月日英海関協定調印<(コラム#4697)>、7月対中借款の拒否回答)<(同左)によって、>さしあたっては反英運動爆発のきっかけとなる事件が生じなかったからである。
まとまりのある運動としての反英運動が再び姿を現わすのは翌39年の6月であった。・・・
<なお、この間、>アメリカは38年12月にはじめて本格的な対中借款に踏み切り、対中支援の態度を明確にした。イギリスもこれに続いて対中クレジットの供与に同意した(39年3月)。それまではたんなるモラル・サポートにすぎなかった英・米の中国支持政策はここで大きく転換したのであった。・・・
英・米の対中援助、ことにイギリスのそれは日本国内の反英感情を著しく刺激した。さらに39年の2月以降、日本の中国占領地支配と英・米・仏の在中権益・勢力との矛盾・対立が、上海、厦門、天津の各都市で租界をめぐる紛争となって顕在化<し(注2)、やがて、>・・・日本軍が天津英仏租界を封鎖する<(注3)と、・・・<反英感情は>一挙に爆発へと向かう・・・。それが1939年6~8月の第二次反英運動<(注3)>であった。」(213~215)
(注1)「アヘン戦争をきっかけに、1843年イギリスが上海に土地を租借し、続いて1848年にアメリカ合衆国、1849年にフランスもそれぞれ土地を租借、1854年英米仏が行政を統一して租界となった。しかし、フランスのみは1861年に再び単独のフランス租界とし、英米租界は1863年に国際共同租界となった。租界では行政権と治外法権が認められ、共同租界では工部局 (Board of works) 、フランス租界では公董局が設置され、工部局と公董局は道路・水道などインフラの建設・管理、警察・消防などの行政自治権を行使するようになっていった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E7%A7%9F%E7%95%8C
(注2)「共同租界の範囲を越えた西側で、西郊空港まで約10kmの「滬西」と呼ばれた・・・西部越界・・・地区<に>工部局が道路や水道などを建設し、沿道の住民から地代や水道代を徴収するとともに、警官を派遣して実効支配を行なっていた。共同租界やフランス租界は過去何度も範囲拡大を繰り返したが、先に道路を建設して実効支配の既成事実を作ってから、中国側に租界の拡張を認めさせる方法を採っていた。工部局は西部越界地区を共同租界へ編入することを狙っていたが、1925年の「五・三〇運動」で上海市民の中国ナショナリズムが高揚したため断念<した>。」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/shanghai2.html
「1937年に蘆溝橋事件が勃発すると、日本軍は上海にも上陸して租界以外の地域を占領。親日の傀儡政権を樹立して上海特別市政府を支配下に置いた。そうなると、今までは共同租界の一員として「列強の有する権益を顧みず、独断的に主権論を強調する」と中国を非難していた日本は、一転して「租界の旧態を支持する英米」を批判し始めた。閘北の延長道路地区は虹口もろとも日本軍が占領を続けて工部局の支配から切り離され、滬西にも40年に上海特別市の警察署が設置されて、共同租界(工部局)の警察と衝突した。日本は共同租界を「抗日運動の拠点」と見なすようになり、できるだけ親日政権に支配させて工部局の支配地域を縮小させようとした・・・。」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokainomawari.html#b
「<上海共同租界工部局問題、ないしは>上海特別市政府の警察権の発動<問題>」とは、つまり日本軍が傀儡政権を使って「滬西」への支配を及ぼそうとした<という問題>で<あり>、結局この地区<に>40年に汪兆銘政権が滬西特別警察局を設立して、工部局による支配は失われた。」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/shanghai2.html 前掲
(注3)天津租界問題は、コラム#3780、3782、3794、3970、4274、4276、4350、4392、4546、4550、4582で触れている。このうち#4274で、第一次反英運動、第二次反英運動という言葉が初出。
→米国は1938年末に、英国は1939年第一四半期に、日支戦争に、蒋介石政権側に立って事実上参戦した、と言ってよいでしょう。(太田)
「宇垣<一成>外相<(注4)は>・・・–国民政府との外交接触(宇垣・孔<祥煕(行政院長)>工作)及びイギリスとの関係調整(宇垣・クレーギー交渉)–・・・<という>一連の外交工作・・・<を>推進した・・・<ところ、>客観的にみても宇垣外交の狙うところは・・・元老・重臣・財閥金融資本・・・の考えと一致していたといえよう。・・・西園寺公望<(注5)は>「日本の将来の発展及び実力の拡充という風な点からいっても、生産的にいっても、また何からいっても、日本の外交の基調は対英米以外にない」・・・池田成彬<(注6)は>・・・「英米を敵にすることは非常に不利だ、また英米を敵にすることは絶対によくない」<と当時指摘している。>」(216)
(注4)宇垣は、1938年5月に第一次近衛内閣の外相になったが、4か月で辞任している。(コラム#4671も参照のこと。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kazushige_Ugaki
これは、「陸軍首脳らの画策により、対中外交を外務省から切り離す「興亜院」の設置が行われて(しかも近衛首相はそれに賛成した)交渉を阻止され、梯子を外された形となり大臣辞任の引き金となった<もの>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
(注5)1849~1940年。貴族。ソルボンヌ大学(卒業?)。フランス流自由主義者。最後の元勲。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
(注6)1867~1950年。ハーバード大卒。三井銀行筆頭常務、三井合名筆頭常務理事を経て、日銀総裁。第一次近衛内閣で商工大臣、大蔵大臣。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%88%90%E5%BD%AC
→永井は、「客観的にみても」という微妙な言い回しをしていますが、帝国陸軍の本流たる統制派の中心的人物の一人である宇垣(宇垣の日本語ウィキペディア前掲)の主観において、その英国観と西園寺や池田の英(英米)事大主義的英米一体論とが同一のはずがありません。
宇垣は、英米一体論に与せず、米国はさておいて英国の日支戦争への「参戦」防止を図りつつ、そのことをも梃子にして、日本にとって有利な条件で日支戦争の早期終結を実現しようとした、ということでしょう。
なお、宇垣軍縮が「陸軍内部に長く宇垣への遺恨として残った」(同上)とされていますが、宇垣自身は軍拡しようとしたけれど、加藤高明内閣の方針に従っただけである(宇垣の英語ウィキペディア前掲)ことから、気の毒な面があります。(太田)
(続く)
先の大戦直前の日本の右翼(その4)
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