太田述正コラム#4713(2011.4.28)
<先の大戦直前の日本の右翼(その5)>(2011.7.19公開)
「こと<第二次>反英運動に関する限り、戦時体制下にあってはほとんど考えられないような大幅な「言論・集会・表現の自由」が与えられることにな<り、>・・・<それは、>反英運動の昂揚を用意した一大要因にほかならなかった。
<このこともあり、>・・・第二次反英運動の特徴は、第一次の時にはごく部分的にしか運動に関与していなかった〈非右翼的要素〉が運動の主要なる「担い手」「運動主体」として全面に進出してきた点に求められる。・・・
<1939年>7月に入ってからの運動の主要な論調・・・にみられる戦争観・対英認識<からして、>・・・蘆溝橋事件後2年にして、・・・右翼の<それら>が「一般世論」としてうけいれられるにいたったわけである。・・・
運動としてみた場合には、右翼運動は〈非右翼的要素〉〈総動員型大衆運動〉に圧倒され、呑み込まれてしまったといえよう。」(229、235、248)
→何と言うことはない。もともと「右翼≒世論」であったところ、「言論・集会・表現の自由」が享受されていた場合は、一層そうであることが明らかになった、ということにほかなりません。(太田)
「<非右翼的要素とは、>第一には、道府県会・市会・町村会などの地方議会及びその議員団<であり、>・・・第二には、府県市町村などの地方行政機関<であり、>・・・第三に、在郷軍人会・軍友会・国防協会・海軍協会・国防婦人会・愛国婦人会など軍関係の団体<であり、>・・・第四に商工会議所に代表される経済団体<であり、>・・・第五は新聞社であ<り、>・・・第六は警防団・青年団などの諸団体である。・・・
・・・このほか特異な存在としては、在日朝鮮人団体(主として融和団体)、在日華僑団体があげられる。・・・
財界の関与は、大阪では積極的、東京では消極的であった・・・。こ<れ>・・・は、東京では金融資本の発言力が大きく、大阪では産業資本(ことに紡績)や商業資本(ことに対中貿易)が強かったこともひとつの理由であろう。なぜなら、池田成彬や結城豊太郎<(注7)>がそうであるように、金融資本の代表者は過激な「大英強硬論」には好意をもっていなかったからである。・・・
政党=政友会・民政党・社大党<(注8)については、>既成政党2党はともに運動においては何ら主導的な役割を果たさなかった。・・・
それでも、民政党に比べれば政友会のほうがまだ積極的であった。
政民両党と好対照をなすのが社大党である。社大党はかなり積極的に反英運動を進めようとした。・・・
沖縄を除く全道府県で何らかの反英行動がみられた。朝鮮・台湾の植民地にも・・・さらに中国占領地に<さえ>・・・広が<った。>」(231~234、253、255)
(注7)1877~1951年。東大法卒、日銀入行、日銀ニューヨーク代理店監督役付等を経て日銀理事(大阪支店長兼務)、安田保善社専務理事兼安田銀行副頭取に転じ、その後日本興業銀行総裁、更に商工組合中央金庫初代理事長。1937年に日本商工会議所会頭を経て林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣兼企画庁総裁。1944年には池田成彬のあとを受けて第15代日本銀行総裁を務めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E8%B1%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
(注8)社会大衆党。「1932年7月に・・・無産政党の統一が実現<し、>・・・結成された・・・。・・・<同>党は軍部・新官僚に迎合・接近していく。親軍路線を主導した・・・麻生久を中心とする・・・グループ・・・は1934年「戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「広義国防論」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。1937年に行われた総選挙で第3党に躍進する倍増の38名当選の成果を得たが、同年の日中戦争勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領を制定。その後も軍部との関係を強化し、1940年3月には、斎藤隆夫の反軍演説による懲罰動議に対して反対の姿勢を示し、欠席・棄権した党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎、鈴木文治ら8名に対し、麻生主導で除名処分にするなどし、より親軍部の立場を鮮明にし、同7月に二大政党よりも早く、先頭切って自発的解散の形をとって消滅、大政翼賛会に合流した。第二次世界大戦後に結成された日本社会党の源流の一つ・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%A4%A7%E8%A1%86%E5%85%9A
→社大党こそ、当時の日本の世論の最先端の潮流に乗っていた政党である、と言えそうですね。
他方、世論に逆らっていたのが、西園寺、池田、結城ら、欧州または米国(できそこないのアングロサクソン)での滞在経験があり、支那に疎く、また、現場にも疎かった人々です。
ところで、永井は、「中国占領地における運動は、占領軍の直接の指導の下に展開されたという点で注目すべきであ<る>」(255)としていますが、その根拠を示していません。ボトムアップの要素もあったに違いない、と私自身は考えています。(太田)
「本稿の最大の欠陥は、陸軍を分析の対象の埒外においていることである。1939年の反英運動に陸軍が深く関与していたことは、かねがね指摘されているところである。在郷軍人会・国防婦人会のような陸軍の〈社会的組織〉が運動の〈担い手〉であったことは、本文において明らかにしたが、陸軍中央がどのような形で運動と接触し、これを操作しようとしたかについては、まったく触れることができなかった。この点は今後に残された最重要の課題といえよう。」(255)
→典拠なしで前の方で、「右翼≒世論・・しかもこの場合の「≒」は、陸軍≒世論の「≒」よりもはるかに「=」に近い・・」と記したところですが、この永井のイミシンな「告白」は、第一次にせよ、第二次にせよ、反英運動は、基本的に民主主義的なボトムアップの運動であって、帝国陸軍が「操作」した要素は小さかったことを巧まずして物語るものです。(太田)
(完)
先の大戦直前の日本の右翼(その5)
- 公開日: