太田述正コラム#4715(2011.4.29)
<トマス・バティとヒュー・バイアス(その7)>(2011.7.20公開)
(3)なぜバイアスは転向したのか
バイアスの ‘Government Assasination(政府暗殺)’(1942年) という、日本についての本↓のタイトル自体がその中身を現していると悟るべきだったのですが、私としては、E
http://www.amazon.co.jp/Government-Assassination-Hugh-Byas/dp/1417990821#reader_1417990821
にその本からの断片が掲載されているところ、それに目を通せば、バイアスの転向した理由が分かるかもしれない、と思っていたのです。
しかし、この私の期待は裏切られました。
スコットランド人のバイアスが日本から開戦後に米国に渡り、その地で自活していかなければならなくなり、リメンバー・パールハーバーという声一色であった開戦の翌年にこの本を上梓したということからして、私の言うところの過剰適応が起きるのは避けられなかったと言えるでしょう。
しかし、バイアスの場合、過剰適応の程度が尋常ではありません。
この本の比較的最初の方から数か所をピックアップしてみました。
「日本が巨大な陸軍と海軍を整備しているのは、そうしなければ欧州諸国の強欲に抗して自国の独立を保全することができないからだ、と<さんざん>私は聞かされた。
しかし、欧州諸国の中で、日本の領土をほんの少しでも欲しがった国は一つもなかった。日本に通商のための施設以外を求めた国などなかったのだ・・・
国際連盟に加盟してから20年後、日本は、米国と英国に対して戦争ができるほど強くなったと思<い、開戦した>。・・・
<その頃の>日本における動きの<背後にある>考え方は、ドイツとイタリアで拡声器でがなりたてられたものと似通っていた。<違っている点は、日本ではこの動きにおける>暗殺者達が将校だったこと<と、自分達自身の神話に依って脚色されていたことだ。>」(ⅴi)
→ロシアは、江戸時代に、既に樺太と千島列島に食指を伸ばしてきており、幕府はロシアに対して安全保障上の脅威を感じていましたし、明治維新以降は、ロシアが朝鮮半島に勢力を扶植しようとすることに日本は脅威を感じており、日本は対ロシア安全保障に腐心せざるをえなかったのですが、バイアスはそんな基本的な歴史知識すら持ち合わせていなかったとみえます。
また、日本は、米英と戦争ができるほど自国が強くなったと思ったわけではなく、追い込まれて窮鼠猫をかむ思いで対米英開戦に踏み切ったというのに、せっかく開戦時まで日本にいたジャーナリストたるバイアスは、一体、何を見、誰からどんな情報を得ていたのでしょうね。
こんなバイアスに、自由民主主義国日本の戦時体制とドイツやイタリアのファシズムとの違いはそれだけか、と憤ってみてもむなしいばかりです。
「天皇は憲法を欽定し、天皇のみが憲法を改正できる。・・・国民は国家のために存在するものとされた。・・・誰も天皇は名目上の長(figurehead)であって国家とは政府機関をコントロールしているところの人々の集合体であると見ようとする者はいなかった。
周辺諸国を支配したいという欲望がすぐに立ち現れた。・・・<実際に>併合する30年も前に・・・西郷は・・・朝鮮を征服しようとした。」(12)
それもそのはずです。バイアスは、このように、全く日本を自由民主主義的な国であるとは思っていなかったのですから・・。
そして、彼は、天皇機関説の存在すら無視するわけです。
「周辺諸国を支配したいという欲望」に至っては、言葉を失います。
彼は征韓論のことを指しているのですが、当時、そんな「欲望」などなかったことを我々は知っています。(注10)
(注10)1870~74年、「西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張・・・ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96
結局、バイアスは転向したのではなく、バティによって施されたメッキがきれいそっくり剥げ落ち、人種主義者たる彼の地肌が露出したということなのであろう、というのが私の結論です。
それが証拠に、満州事変についての彼の「10年後の回想」には、バティ的な見方の痕跡すらうかがうことができません。(19~20)
(完)
トマス・バティとヒュー・バイアス(その7)
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