太田述正コラム#4719(2011.5.1)
<英国人の日本観の変遷(その2)>(2011.7.22公開)
2 ジョン・パードウ「同時代英国の日本時評–新聞・書籍・書評および宣伝(1924~1941年)」
 「英国の体制側が極東について持っていた第一の関心は、『ザ・タイムズ』の社説が代表するように、中国における英国の財政上の利益と貿易だった。1920年代および1930年代の前半、彼らは中国のナショナリズムを(多くの場合共産主義と結びつけて)、第一の脅威であると見ていた。彼らは1931年に日本が満州を掌握したことについては、おおむね中立の態度をとっていた。
 1920年代、『ザ・タイムズ』の論説員たちは、日本のことを23年の震災から首都が「勇敢に立ち上がり」つつある「すばらしい国民」だと高く評価していた。日本は中国から挑発を受けていたが、「平衡感覚を維持して」いた。日英同盟はすでに廃止となっていたが、英国の日本に対する共感は変わらなかった。しかし、同盟が廃止されたために、日本は国際的に孤立するようになった。日本の戸口には「ボルシェヴィキのロシアと、無秩序な中国」が控えていた。日本の英国およびアメリカとの関係は友好的だったが、「冷静で、穏当で、距離を置いたもの」だった。日本の未来は不確実だったが、23年の震災や28年の金融危機の困難に「勇敢かつ我慢強く」耐え、「尊敬と共感」を引き起こしていた。日本の政治家は「非常に賢明であること」を立証していたし、協力で辛抱強い国民性という「すばらしい資質」を頼りにすることができたのだった。・・・
 31年9月の満州事変の背景について評価を行った『ザ・タイムズ』の社説が、中国人に対して何ら共感を示さなかったのも驚くことではなかった。」(205~206)
→こんな蜜月関係にあった日英両国が、その後、8年も経たないうちに戦争状態に入ったなどということは信じがたい思いがしますね。
 なお、ヒュー・バイアスについての私の評価(コラム#4715)を変える必要はありませんが、彼が、その時々のタイムス社及びのその読者層の意向に迎合する記事を書いていた、という可能性が大ですね。
 つまり、彼の論調がタイムス、ひいてはその読者層の意向をリードしたのではなく、その逆であった可能性が大である、ということです。(太田)
 「『ザ・タイムズ』の論説員たちを従来の親日反中国スタンスから逸脱させたのは、32年の上海での戦闘と、34年4月の天羽声明(日本のモンロー・ドクトリンと呼ばれる)<(コラム#4378、4380、4618、4695)>だった。・・・
 1934年5月<の論説では、>・・・日本を中国における英国の財政上の利益の第一の脅威ととらえることで、蒋介石の政府は以前よりも好意をもって見られるようになった。蒋介石は自らの政権の安定を強化し、共産主義を抑圧し、また西洋列強と進んで話し合いを持つようにすることで、英国の財界との関係を改善していた。・・・蒋介石も『ザ・タイムズ』も1920年代後半から立場を転換していた。両者は共産主義を抑圧すること、また中国を支配しようとする日本の試みに抵抗することに、ある種の共通する利害関係を持っていた。
 1935年も1月になると、ロイター通信の前東京特派員マルコム・ケネディー大尉<(後出)>は日本に対する世論の悪化に衝撃を受けていた。・・・保守的な『デイリー・テレグラフ』に彼は次のように書いた。「英国に帰り、この国に広がっている、日本人の攻撃的な意図なるものについての考え方の多くが、どれほど奇妙に歪んでいるかを知って少々驚いている」。
 日本に対するむき出しの敵意が『ザ・タイムズ』に初めて現れるのは、1937年、日中間に全面的な戦争が始まり、日本軍がたとえば長江流域のような英国の財政および通商上の利益の中心となっている地域に移動してからのことだった。英国の中国大使、ナッチブル=ヒューギスンが乗った公用車が37年8月25日、日本の飛行機から攻撃を受け、彼が重傷を負った<(注2)>とき、公的な抗議だけでなく、一般民衆からも抗議がわき上がった。・・・
 (二等書記官の)寺崎は、自分はこれまでは常に英国の友人であり、英国を賞賛してきたが、今の英国を軽蔑せずにはいられず、日本の第一の敵だとみており、日本は英国を同盟国とすることをやめてよかったと考えていると苦々しく述べた。この悪化の主な要因となったものは、中国での戦争の写真報道だった。特に日本が行った民間人に対する爆撃だった。新聞記事は、たとえば英国の人道主義的援助や、英国の中国伝道使節の活動や、一般の中国民間人の苦悩のような「人道的な関心」に訴えて、英国の一般家庭に中国における戦争の恐怖を伝えていたのである。」(206~208)
 (注2)「当時、外務省の東亜局長であった石射猪太郎の日記 8月26日・・・英大使ヒューゲッセン、南京より上海に向ふ途中常熟、大倉間で日本飛行機に空襲され負傷と。・・・
 <当時上海派遣軍司令官であった>松井<石根陸軍>大将陣中日誌 八月三十日(杉山陸相に私的意見具申)
・・・・
 数日前在南京英国大使ヒューゲッセン氏は 陸軍武官と共に自動車に依り南京上海道を上海に来る途中 某飛行機上より機関銃射撃を受け重傷を負へり こは多分我海軍飛行機の射撃に依るものらしきも 昨日支那軍飛行機も機体に赤丸の印を附し我飛行機に模する事実あり果して日支何れのものなるや明らかならす・・・仮令我軍の射撃によるものとするも 警告なく戦場内を通過する内外人か戦闘の傍杖を受くることは已むなき次第にして 我が国より敢て慌てて遺憾の意を表すへき性質のものに非す 我が政府及上海外む、海軍の態度は余りに慌て過きたる感あり・・・」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/390.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9 (<>内)
→天羽声明は、手続き的にも内容的にも問題があったけれど、それでもって英国世論が親日から反日へと転換するような材料たりえません。
 ヒューギスン(シューゲッセン)銃撃事件についても同様です。
 1933年3月のナチスのドイツ全権掌握、1935年5月のドイツ再軍備宣言
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%86%8D%E8%BB%8D%E5%82%99%E5%AE%A3%E8%A8%80
は、英国の目前における脅威の復活を意味し、欧州1935年8月の新インド統治法(The Government of India Act 1935)成立
http://en.wikipedia.org/wiki/Government_of_India_Act_1935
は大英帝国の衰退を意味しました。
 このような厳しい国際環境の下、英国人が人種主義的な退行症状をきたし、極東情勢を巨視的かつ客観的に見ることができなくなり、赤露の脅威という深刻な問題から目をそらし、英国の支那の揚子江流域等における財政上の利益と貿易の維持などという矮小なことにこだわるようになった、ということであろうと私は考えています。(太田)
 「1928年に、G・C・アレン[(Allen)]は『近代日本とその問題[(Modern Japan and its Problems)』(1928)]のなかで、日本を賛美しながら書いた。
 ・・・日本はアジアの諸民族のなかで唯一、西洋列強の侵略に対し効果的な抵抗を行ってきた。日本だけが、独自の社会および政治形態を犠牲にすることなく、物質的な設備を整えたのである。日本だけが…東西両文明を大きくとりこみ、人類という家族の二つの支脈を一つにすることができるように思われる。・・・
 ヴィア・レドマン[(H.Vere Redman)]は『危機に立つ日本[(Japan in Crisis)』(1935)]で・・・極端なスタンスをとった。
 われわれは世界平和維持ということで、(日本に)パートナーシップを申し出てもよいのだ。極東の日本版モンロー・ドクトリンを承認するのである…そうして、われわれ自身のまさに死活に関わる利益を守るのである。すなわち、インドへのルートとオーストラリアへのルートである。これは危険を冒すことなくできることである。大日本を認めてやりさえすれば、大アジアには何の問題もないのだ。
 『日本のオムレツ[(A Japanese Omlette)』(1933年)]の中でポドリー・・・少佐[(Major R.V.C.Bodloey)]・・・は・・・中国、大英帝国に対するボルシェヴィキの脅威を認め、良好な日英関係が重要であるとしている・・・。・・・
 『日本の問題[(The Problem of Japan)』(1935)]はケネディー[(Captain M.D.Kennedy)]が日本に密着した18年に及ぶ歳月をもとにして書いている。・・・<ポドリーもケネディーも>どちらも陸軍士官を経験してから著述に戻った人物であり、彼らの日本称賛は、中国蔑視に強く引きずられている。ほとんど嫌悪と言ってもよいほどの蔑視である。・・・
 ・・・二人は、中国軍の無秩序と訓練が行き届いていないことにあきれていた。二人とも無秩序で分別を持たない中国人が、訓練が行き届き、立派に組織された日本人から教えを受けるという考えに執着した。ポドリーは問題があるのは中国だけではないと考えていた。
 ヨーロッパやアメリカの政府の態度が問題である。彼らの政策は、…中国や日本で長く生活した経験を持つ者にとっては、分かりにくいのである。ロシアの脅威がある。ロシアの脅威については、私もそうだが、ロシア人が中国内部を移動し、動揺している国民のなかに入り込んだり、あるいは訓練の行き届いていない兵士たちの大群と接触を持つようになるまで、誰も認識できないのである。兵士の大群は、指導を受け組織されれば、他の世界の者たちと一緒に何だってやってしまうようになるだろう。20世紀の極東の未来をつくるにあたって日本が果たすべき役割は、2千年前にローマがヨーロッパおよびアフリカについて持っていた役割と同様に明白であり、このプロセスによってある種の苦痛が避けられなかったとしても、最終的な結果はすべての人びとにとって利益となるだろう。」(211~214。[]内は226~227)
→しかし、この間、日本や支那を実際によく知っている英国人、とりわけケネディーやポドリーのように英陸軍歴のある人々は、日本の世論や帝国陸軍と同じ日本観、支那観を発信し続けていた、というわけです。(太田)
(続く)