太田述正コラム#4726(2011.5.4)
<英国人の日本観の変遷(その5)>(2011.7.25公開)
「1934年には英国放送協会の解説者の幅が広げられた。なかでも、おそらく新たに最も注目を集めたのは、保守的な旅行者で、作家・ジャーナリストのピーター・フレミング<(注7)>の発言であった。秩序や進歩に対する帝国主義的な考え方を誰かによって代表させるとすれば、それはフレミングである。彼は「満州国の意義」と題された放送で、「日本人は満州をうまく経営していくことができるのか」と修辞的に疑問を呈した。彼の答えは明快だった。
総じてうまくやれるだろうと思う。日本人は非常に進歩的で有能な国民であるが、それに対して中国人というのは…自らを統治するのがあまり得意ではないのだ。日本人は満州を開発しようと懸命になっており、これまで中国人がやってきたよりも、うまく満州を開発するだろう。その開発の過程で3千万の住民が利益を得るはずである。もちろん、彼らは日本人と同じだけの利益は得られないだろうが、つまるところ日本人がほとんどの仕事をしているのだから、利益の大きな分け前を要求するのは当然といえる。」(238)
(注7)Peter Fleming(248)。1907~71年。ジェームス・ボンドもので有名なイアン・フレミングは弟。オックスフォード大学英文科を首席で卒業。先の大戦において、1942年からは東南アジアで軍事欺罔(military deception)作戦に従事し、その功績により英4等勲章(OBE)を授与される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Fleming_(writer)
http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_British_Empire
→日本は近代諸帝国中、植民地等に「秩序や進歩」を最ももたらした帝国であったと言えるでしょう。それを見抜いていたように思われるフレミングが、対日戦で重要な役割を果たすとは、英陸軍のことを思い出しますね。(太田)
「1934年に、日本について最も優れた考察をラジオで示したのは、<在日英大使館の>ジョージ・サンソム<(コラム#4582、4584)>であった。・・・「1931年、日本は経済的な落ち込みが激しく…貿易は振るわなかったが…いまや安い円のおかげで、日本は製品を安価にかつ大量に輸出することができるのだ」。日本の商店で売られている日本製品については、「品物の質が高く、たえず改良が加えられているのは疑いえない。これは、不況だった時期に、賢明にも、日本の製造業者が技能効率を高めるために抜本的な措置を講じたためである」と論評した。サンソムは、英国放送協会の他の寄稿者と同様、ますます西洋化する生活様式に対する保守的な国家主義者の反発に言及することが多くなるが、真新しい微妙な変化に注目しつつ、次のように結論した。
多くの思慮深い日本人は、欧米のほうを向いてきたが、至るところに経済の破たんや政治の混乱を見て、西洋の制度というのは、はたしてこれまで思ってきたほどすばらしいものなのかと自問するようになっている。そして、そもそも日本の旧体制派、日本人がわれわれから受け継いだ欠陥の多い制度より優れていたのではなかったかと考え始めている。そうした疑問は急速に広がり、日本で反動的な勢力が力を増しつつある。彼らは議会政治を軽蔑するような風潮を生み出し、地域によってはファシズムと呼ばれるものの傾向を備えているが、おそらくは伝統的な日本の系譜に連なる専制政治とととらえるのが最も正確であろう。
わたしは、未来に向けた発展がこのような系譜のもとで行われるとは思わない。・・・今後どうなるのかは誰にもわからない。ただ一つだけ確かなことは、日本は変化しており、いまも変化し続けているということである。時計の振り子は相当な速さで振れている。が、日本の急速な変動は、不安定さというよりはむしろ出口を追い求める活力を示す兆しなのである。」(239~240)
→サンソムは、在日英大使館商務参事官として、日本の経済高度成長が始まっていることを体感していたわけですが、それが、江戸時代の記憶に根差す、縄文モードたる日本型政治経済体制の成立によるものである、と後少しで分析できるところまで到達していたと言っていいでしょう。
彼の限界は、自分の国の英国と同時並行的な課題・・すなわち、民主主義独裁の猖獗による有事化と世界大恐慌の勃発に伴い、挙国一致体制の構築といわゆる資本主義の全般的危機への対処・・に日本も取り組むことを余儀なくされており、違っているのは、それを日本独特の方法で行おうとしていた点だけである、という認識が彼にはなかったことです。
なお、イギリス人たるサンソムが「西欧」と言う時、それは「アングロサクソン」を意味しつつ、あえて韜晦しているわけです。(太田)
「デイム・レイチェル・クラウディ<(注8)>は・・・1919年から31年まで国際連盟の社会問題およびアヘン取引部門で働いていたが、このことは日本の行動を認識するうえでの妨げにはならなかった。リットン卿やピーター・フレミングと同じく、この人物も満州国は日本の衛星国だと分析したが、以下のようなこともまた認めた。
そこで出会う日本人の若者には、どこか十字軍的な精神がある。彼らは満州国で死ぬ必要はないかもしれないが、満州国に住まなくてはならないのであり、彼らの多くにとってそれは非常につらいこと–まるで居心地の悪い土地への追放のようなことである。
日本人はあらゆる努力をしている。…その国はかつてより整備された。そのことは議論の余地がない。
デイム・レイチェルは、日本人や朝鮮人の移民の流入によって、現地の農民や商人が損害を被り、また依然として、一帯で治安の悪い状態が続いていることも知っていたが、熱河で起こっている変化に、非常に好い印象を受けていた。
私よりもずっとよく満州の状況を知っている人たちに何人にも、日本人は熱河省の混乱した状態に何らかの秩序をもたらしてくれたか、と聞いてみたが、1933年に日本が取った行動に最も反対していた人たちでさえ、熱河省の人びとが2年前よりも今日の方がよい暮らしをしていることを認めざるをえなかったのである。」(241)
(注8)Dame Rachel Eleanor Crowdy(248)。1884~1964年。イギリスの看護師で社会改革家。第一次世界大戦における看護師としての活躍に対し、英2等女性勲章(女性ナイト爵=ダーム爵DBE)を授与される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rachel_Crowdy
http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_British_Empire (前掲)
→同じ女性でも、パール・バック(コラム#4462)のそれとは月とスッポンの素晴らしい日本人評ですね。彼女は、当時の日本人の国際的行動が人間主義的なものであって、それが多大な成果をもたらしていることを見抜いていたわけです。(太田)
(続く)
英国人の日本観の変遷(その5)
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