太田述正コラム#4734(2011.5.8)
<ヒューム随想(その1)>(2011.7.29公開)
1 始めに
 5月6日は、スコットランドの哲学者、デーヴィッド・ヒューム(David Hume。1711~76年)の生誕300年でした。
 ついに父親の蔵書の中にあったヒュームの本(の訳本)を読むことなく現在に至っている私ですが、6日付のニューヨークタイムスのコラムを糸口に、彼の熱情(passion)こそ人間を突き動かすという説、及び、彼の人間主義的思想に迫ってみたいと思います。
A:http://www.nytimes.com/2011/05/07/opinion/07zaretsky.html?_r=1&ref=opinion&pagewanted=print
(5月7日アクセス)
B:http://www.philosophicalmisadventures.com/?p=38
(5月8日アクセス)
C:http://plato.stanford.edu/entries/hume/
(5月8日アクセス)
D:http://en.wikipedia.org/wiki/David_Hume
 (本シリーズの本筋とは関係ありませんが、「渡部昇一氏がデービッド・ヒューム礼讃をしている」(コラム#1697)ことの渡部にとっての申し開きになるかも、と思ったのが、「英語で書いた最も重要な哲学者デーヴィッド・ヒューム」というCの冒頭に出てきた一節(A)です。)
2 熱情こそ人を突き動かす
 かねてより、ヒュームに関する英語ウィキペディア(D)に、独身を通したらしい彼の女性に関わる話が一切出てこないことに奇異な気持ちを抱いていたのですが、やはり、女性への言及抜きではヒュームの人と生涯について語ることなどできないことが分かりました。
 彼は、1755年に書いた『精神の不死性について(On The Immortality of the Soul)』の中で、「精神の道徳性に関する理論において、女性の能力が劣っていることは容易に説明することができる。家庭生活では心身ともに高度な資質(faculties)が求められることはない<からそれで事足りるわけだ>。ところが、そういった事情は、宗教理論においては完全に無視され、両性は理性と決意の力が平等であって、男女どちらも現在発揮されている理性と決意よりも無限に大きい<潜在能力を持っている>とされている。」と記しています。(B)
 これは、一見ひどい女性差別的な主張のように見えますが、特定の人間集団において、常に女性の能力が男性に比べると標準偏差が小さいことから、彼は、上澄みの部分に関しては、女性の能力が男性より低い、という事実を指摘しているに過ぎないものと私は受け止めています。
 そこで、ヒュームが独身で生涯を終えたのは、(当然ながら)彼が対等と思えるような女性に出会うことがなかったからではないか、というのが私の想像です。 
 
 ところが、そんな女性観を抱いていたにもかかわらず、理性は熱情の奴隷であるといわんばかりの主張をヒュームは若い頃に行っています(注1)。
 (注1)ヒュームは、『人性論(A Treatise of Human Nature)』 (1739) の中で、理性は熱情の表明を促進できてもそれを防止したり抑圧したりすることはできないが、理性は熱情を道徳的行動の動機にすることを可能ならしめうる、とした上で、
http://www.angelfire.com/md2/timewarp/treatise.html
 「理性単独では意思による行動の動機にはいかなる意味でもなりえない」のであって、例えば欲望(desire)は「理性からは生じない」が、「理性は欲望によって指示(direct)」されうるし、されなければならない、と主張した。
 これは、当時の彼が女性によって翻弄された経験を踏まえて行った主張ではないでしょうか。
 若い頃については、このことを裏付ける記録がありませんが、中年以降の彼が女性に翻弄された記録ははっきり残っています。
 1761年に、ブフレール伯爵(Comte de Boufflers)との関係が冷え切っていた妻であると同時にコンティ公(Prince de Conti)の情婦であったイポリット・ドソージョン(Hippolyte de Saujon)がヒュームにファンレターを送りました。
 ベストセラーになっていたヒュームの『イギリス史(History of England)』は、「精神を啓蒙し人間性と慈悲の感情で心を満たす」とし、これは「天上の存在が人間の熱情から自由に」書かれたに違いない、と。
 エディンバラから、長く独身生活に甘んじていたところの、丸々と太った、そして心乱れたヒュームは、ブフレール夫人に感謝の意を表し、「私は本と研究に荏苒日々を送り、人生の喜びとは無縁でした」が、あなたには喜んでお会いしたいものです、と返事を書いたのです。
 そして、2年後の1763年、彼は、パリの英国大使館に派遣されることになります。
 ヒュームはブフレール夫人とすぐに親しい仲になり、互いに頻繁に行き来したり手紙を書いたりするようになります。
 ヒュームは彼女への愛情とコンティ公に対する嫉妬心を告白し、ブフレール夫人もそんな彼を焚き付けます。
 そこへ、彼女の夫の伯爵が亡くなり、彼女はコンティ公に自由に結婚を迫ることができる立場になり、ありったけの力を振り絞って公に迫ります。
 意気消沈したヒュームは、彼女のプラトニックな助言者兼愚痴聞き役へと身をやつすのです。
 このように、ヒュームは威厳をもって彼女を諦めた上で、衆目、彼女が公と結婚する目がないことが明らかになった時、彼女を諭すのです。
 そんな彼は、死ぬまで彼女との文通を続けました。
 彼が死の床についていた時、コンティ公死亡の報が届きます。
 そして、彼は、自分の人生における最愛の存在であった彼女に対し、お悔やみの手紙を書き記すのです。
 その手紙は、別れの言葉で締めくくられていました。
 「何の不安も後悔もなく、私に死が近づきつつあります。私は貴女に、大いなる愛情と敬意をもって最後の挨拶を送ります」と。
 (以上、特に断っていない限り、Aによる。)
 しかし、ヒュームは隅に置けません。
 彼がその晩年に愛した女性は、実はもう一人いたのです。
(続く)