太田述正コラム#4738(2011.5.10)
<戦間期の日英経済関係史(その3)>(2011.7.31公開)
3 石井修「綿糸布市場をめぐる日英の角逐–1930~1936年」
「大恐慌期に急速に拡大した日本からの輸出は世界各地で深刻な摩擦を惹き起こした。とりわけ、英国および英連邦諸国、英領植民地や米国、米領フィリピン、フランスなどは廉価な日本品の流入に悩まされた。1930年代の日英関係史のなかで、通商上の争いとその結果生じた相互イメージの悪化は、小さからぬ役割を演じた。通貨切下げ、輸入割当て制度、相互主義、通商条約の破棄、貿易制限、関税率の引上げなど、国際貿易が「貿易戦争」の様相を帯びたが、これら大恐慌に始ま<る>・・・不安定な国際情勢を背景として起こったのである。
日英間の貿易摩擦–とりわけ綿布をめぐる摩擦–は、きわめて熾烈であったため、第二次世界大戦後の時期になっても、30年代に日本との競争にさらされた記憶の生々しいランカシャーの綿業は、日本に繊維輸出の復活に不安を感じていた。英国の造船業界も同様の不安を抱いていた。そのことは、英仏を始めとするヨーロッパ諸国やオーストラリアなどが、日本のガット加盟を支持しなかったし、1955年に加盟したあとにも、ガット35条を適用し、日本品への輸入差別を行ったことに表れている。」(59)
→マルクス主義者の主張にもかかわらず、およそ、経済などというものは、政治・軍事を中心とするハイポリティックスの対象たりえません。
しかも、後で出てくるように、よりにもよって、戦間期の英国は、綿業などという、あえて言えばどうでもよい産業の保護のために日本の世論を敵に回し、結果的に英日間のハイポリティクスに悪影響を及ぼしたのです。
何度も申し上げていることですが、人でも国でも落ちぶれるろくでもないことにこだわるようになることを痛感します。(太田)
「1933年に日本からの綿製品輸出が英国のそれを歴史上初めて凌駕したことは、ランカシャーと大阪の立場を象徴的に示していた。」(60)
→戦間期の日本は上昇機運に満ち満ちていた、ということを頭に叩き込んでください。(太田)
「大恐慌の影響で世界貿易(とくに貿易額)は著しく減少した。日本の輸出(額)も下落した。1931年には、1929年に比して47%の低下がみられた。しかし回復も速かった。・・・高橋是清蔵相は、・・・通貨の面では、・・・円が米ドルやスターリングポンドに対して下落するのを放置した。そして財政や公共支出面では、ケインズ主義を先取りした政策を実施した。積極財政政策と円安とがあいまって、日本は不況からの脱却を他国に先駆けて実現することとなった。・・・1933年と35年の間の年間GNP成長率は8.8%の高さに維持された。
・・・高い生産性と低い賃金<も>日本の貿易拡大に貢献した。・・・相手国は日本が「ソーシャル・ダンピング」を行っていると非難した。」(60~61)
→大蔵省は適切かつ革新的なマクロ経済政策(金融財政政策)を遂行し、商工省もまた適切かつ革新的な(日本型政治経済体制構築をもたらしたところの)ミクロ経済政策(合理化/カルテル政策)を遂行することで、日本は世界で初めて、大恐慌の影響から脱却するとともに、経済高度成長を実現したのです。
当時の日本の政治家や官僚(、そして軍事官僚、)がいかに有能であったか、ということです。(太田)
「日本の輸出に対する異常なまでの熱の入れ方の背景には・・・人口増大からくる圧力<もあった。>明治維新までおよそ2800万人の水準を保っていた人口が、維新を境に上昇し始めた。第一次世界大戦の終結以来、年ごとに100万人の割合で増加し続け、1930年代初めには6800万人に達した。日本は、中国、インド、ソ連、米国に次いで世界で5番目の人口となった。1920年代における米国、カナダ、オーストラリアなど、そして、そのあとのブラジルなどのラテン・アメリカ諸国による移民制限は、日本人のプライドや人種意識を傷つけたのみならず、心理的圧迫を加える働きをした。・・・
輸入の増大は日本人の輸出志向のもう一つの原因だった。日本は恒常的な貿易収支の赤字を抱えていたが、大恐慌による絹の価格の暴落により、さらにそれは悪化した。貿易赤字は、1931年の金本位制離脱により輸出が有利になったにもかかわらず、改善されなった。増加する人口、そしてより重要なこととして、繊維産業の成長と兵器産業を含む重工業の発展は輸入の増大を必要とした。日本はまた対外債務に対して年々2000万ドルの利子を払わなければならなかった。これらの要素が日本の国際収支に大きな負担となったが、海運業での外貨の受け取りによって辛うじて維持していた。」(61~62)
→ほんの一昔前の日本は、少子化/人口減少に悩む対外債務大国の現在の日本とは全く違う国であったということです。(太田)
「1930年代初頭、インド政庁は綿製品に対する関税を引き上げた。英国製品と非英国製品とを差別する最初のものだった。そのあともインドは非英国製品への関税をくり返し引き上げたため、2種類の関税の間の差は広がっていた。1933年4月にはインド政庁は英国政府の口を通して、1904年の日印通商条約を廃棄することを発表した。・・・<また、>英国は西アフリカ植民地を1911年日英通商条約の適用外に置き、日本品への輸入禁止措置をとった。」(63)
「この年の秋に<日本とインド政庁との間で>新たな通商条約を結ぶための交渉が始まった。・・・
この会議<は>「シムラ会商」とよばれた・・・。・・・
新条約についての合意が成立し・・・1937年3月31日まで有効の新条約<の>・・・正式調印<が>ロンドンで7月12日に行われた。・・・
しかしながら、会談は、英国が経済ブロックを作り、世界市場のシェアを必死に守ろうとしている現状維持勢力であるとのイメージを日本人の間に強める働きをした。」(63、64、66~67)
→日英経済摩擦の焦点はインドであったというわけです。(太田)
「歴史の後知恵から、1936年は転換点であった。この年1月、日本はロンドン海軍軍縮交渉から脱退し、年末には海軍条約を廃棄した。・・・
1936年3月初頭、ランカシャーの貿易ミッションがオーストラリアに到着した。・・・
5月初め、ミッションに参加した財界人が、日本品を大量にオーストラリアに入れることは「白豪主義」からの逸脱であり、「有色人種の作った製品を入れることは、有色人種そのものを自由に受け入れるに等しい」などと述べた。・・・
<このような背景の下、>5月22日<オーストラリアの通商条約担当相の>ガレットは<同国>議会に対して「貿易転換政策」を発表し・・・ライセンス制が日本製品に課せられ、また日本繊維品への関税引上げが行われた。・・・
米国<も日本製品に対する>関税<を引き上げる>措置<をとった。これら、>・・・米国とオーストラリア政府のとった措置は、日本国内に激しいナショナリスティックな反応を喚び起こしたのである。・・・
日本人は英語という言葉で結ばれている英米2国間に一種の「結託」があるのではないか、と疑った。」(81~83、84)
→実際には、英本国とインド、そしてオーストラリアとの間はもとより、英国と米国との間も「結託」などないといってよいほどギクシャクしていたのですが、英米側において人種主義的な言動が見られると、それが日本の世論を刺激し、日本の世論の方でも、物事を冷静、客観的に見ることができなくなったきらいがあります。(太田)
「綿業は英国ではどうひいき目にみても、最重要の産業ではなかった。それにもかかわらず、英国政府、とりわけ商務院、植民地省、自治領省などに影響力を及ぼすことに成功した。<また、>日本で<も、>綿業は1930年代半ばまで重要な産業であったが、全体的には、比重が軽工業から重工業へと移っていた。・・・
1930年代初頭の大恐慌<が>「自由貿易」が拠って立ってきた基盤を根底から崩してしまった。・・・英国は特恵貿易ブロックを形成した。日本<もこれに対して、>1930年代後半には、・・・東アジア内でブロックの形成を試み始めた。このことが、また中国における日英関係を悪化させる一因となった。」(83~84)
→これも何度も申し上げていることですが、何と言っても、最大の責任は大恐慌を引き起こした米国にある、ということを忘れないようにしたいものです。(太田)
(続く)
戦間期の日英経済関係史(その3)
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