太田述正コラム#4748(2011.5.15)
<戦前の英国の知日派(その1)>(2011.8.5公開)
1 始めに
XXXXさん提供の、サー・ヒュー・コータッツィ&ゴードン・ダニエルズ編『英国と日本 架橋の人々』思文閣出版(1998年)からの2篇を適宜ご紹介しましょう。
2 ジョン・パードウ「マルコム・ケネディ ある語学将校の日本体験」
これは、コラム#4540、4719、4722等で登場したマルコム・ケネディについての小評伝です。
「マルコム・ダンカン・ケネディは、1895年1月5日にエディンバラで生まれた。・・・
マルコムは1913年にサンドハースト陸軍士官学校に入学し、1914年1月には・・・将校に<任官し>た。・・・
1916年・・・<に、>日本に将校を送り、日本語を学習させ、しばらく日本陸軍のいずれかの隊に参加させるという、[第一次世界大]戦前からあった計画の復活を参謀本部が決定した・・・。・・・彼は正式に応募した。陸軍省での面接の後、6人の将校たちとともにロンドン大学のアジア・アフリカ学院で、3か月の日本語予備訓練コースに入ることを命ぜられた。コースが開始されたのは、1917年3月12日である。最終の試験でケネディは2人の合格者のうちの一人に選ばれ、日本行きが決定した。
1917年9月4日、ケネディ大尉は・・・日本[郵船]の客船・・・に乗り込み、・・・2か月の航海の後、1917年11月5日に神戸に到着し・・・神戸から汽車で東京へ向かった。
そもそも、日本語と日本の軍組織を学ぶことを目的として、英国の将校を日本に派遣するこの計画は、1903年、その前年に締結された日英同盟の結果として開始されたもので、毎年英国軍から2、3人、インド軍から1、2人の将校<(注1)>が派遣されていた。その目的は、将来の大使館付陸軍武官の候補者育成と、日英が共通の敵と戦うことを想定しての連絡将校の育成であった。・・・
語学将校として日本で過ごした最初の1年は、主に、日本語学習にあてられ、その後(通常、さらに2年間)日本軍の部隊、あるいは軍事訓練機関の一か所ないしはそれ以上に所属した。さらに加えて、彼らは実際の機動演習にも参加した<(注2)>し、またほとんどの場合、日本の国内ばかりでなく、海外にある日本の領土にも広く旅行した。彼らは東京の英国大使館付武官の指揮下に属しており、日本軍に関する情報を報告する義務があった。・・・ ケネディ大尉が初めて日本の陸軍に配属されたのは、1918年の暮のこと、静岡の<歩兵第>34連隊<(注3)>の基地であった。・・・
日本の警察は、民間、軍部共に外国軍人の一挙手一投足を厳しく監視していた。・・・
とは言っても、日英同盟に終焉をもたらす1921年のワシントン会議までは、英国人の武官や語学将校には、他の国には禁じられていた日本軍関係の情報の入手が許されていた。また、外国人で日本軍の演習に参加することが許されていたのは、ほとんど英国人だけであった。・・・
ケネディの語学将校としての任務の終了は1920年11月であったが、その直前の9月から10月にかけて、彼は日本軍が占領していたウラジオストクと満州を訪問した。・・・
この旅を通して彼をもてなした日本の将校たちの親切と、行き届いた心配りに、彼は深く感謝した。行く先々で、汽車の到着時の出迎えや、訪問希望の場所への案内などが滞りなく行われるよう次々と指令が電報で伝えられ、必要に応じて馬や案内人が用意され、宿の準備が整っていた。・・・こうした細やかな配慮は、実はその裏で別の機能を兼ねていたことも彼には分っていた。彼に同行した案内役というのは、必ずといっていいいほど憲兵であったし、彼らはケネディの行動を一寸漏らさず観察していた。そして、ある地域を離れて次の土地に着くと、そこには別の憲兵の出迎えがあり、ほとんど例外なくその憲兵は、彼の経歴と旅行計画を熟知していたのである。もっとも、こうした監視体制というのは別段特別なことではなく、外国人なら誰でも、日本国内ばかりでなく、特に海外の日本占領地では、必ず体験することであった。・・・
ケネディは脚の負傷を理由に、1922年3月に退役したが、実は、軍・・・が彼をただちに除隊させようとしたのを・・・彼の<英陸軍>極東情報部における上司<たる、あの>ロイ・ピゴット少佐 Major Roy Piggott ・・・が反対し彼を擁護したため、1921年に両者の歩み寄りで決着が付いて、この時の退役となったのである。
1920年、日本での最後の年に、陸軍武官ウッドロフ准将が、<英蘭系のロイヤル・ダッチ・>シェル石油の日本の子会社であるライジング・サン石油株式会社に働きかけて、ケネディに顧問という新たな部署を用意するよう話を進めていた。そして、彼の体系を延期させたピゴットga1921年に、ライジング・サン石油に対して、ケネディの退役までそのポストを保留するよう依頼し、了承されていたのである。・・
最も重要な彼の役割は、政府内機関、特に軍部との接触を新たに始めたり、かつての繋がりを復活させることであった。実際、規模においても収益においても最大の取引相手は日本政府だったからである。」(304~305、307~310)
(注1)全員英国人であったと考えられる。というのは、1920年代になってようやくインド人が将校に登用されるようになったけれど、彼らは階級如何を問わず、英国人将校の命令に服さなければならない存在だったからだ。なお、英インド(英印)軍は、植民地を転々とする部隊たる英本国軍と現地採用の兵士と将校からなるインド軍があったが、日本に隊付将校として派遣されたのは、後者の将校ではなかろうか。
(以上、事実関係は以下による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/British_Indian_Army
(注2)「参加」と言っても、「オブザーバーとしての参加」であったろうことに注意。
(注3)自衛隊の静岡の第34普通科連隊が同じ場所に連隊本部のあった帝国陸軍の歩兵連隊から同じ連隊番号を継承している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC34%E9%80%A3%E9%9A%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC34%E6%99%AE%E9%80%9A%E7%A7%91%E9%80%A3%E9%9A%8A
、という珍しい事例の一つである。
→残念でならないのは、相互性の原則に則って、帝国陸軍が英軍や英印軍に隊付将校を派遣しなかったことだ。
逆に言えば、(英陸軍が日本以外にも隊付将校を派遣していたのか、派遣していたとしてのその規模がどれくらいであったのか詳らかにしないが、)英陸軍が帝国陸軍に隊付将校を派遣する決断を下したことは、敬服に値する。
受け入れた帝国陸軍の方も、丁重、かつ真剣に対応したことが分かる。
なお、こういう客人(戦後の自衛隊における内局キャリアもそうだ)の「視察」の際の帝国陸軍の手配りの周到さが、そのまま、戦後の自衛隊に受け継がれていることに、私自身の経験に照らし、苦笑を禁じえない。
もう一つ、留意して欲しいのは、石油のような戦略物資についてすら、当時、売り込み先に土地勘のある(=人的ネットワークを形成している)将校OBが英国において引く手あまたであったということは、戦後日本が武器輸出をしておれば、海外経験のある自衛隊の将校OB・・将官クラスはごく一部を除いて海外経験のある者ばかりだ・・の再就職は、天下りの形をとらずして容易に行いうる、ということだ。(太田)
(続く)
戦前の英国の知日派(その1)
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