太田述正コラム#4750(2011.5.16)
<戦前の英国の知日派(その2)>(2011.8.6公開)
 「1924年8月半ばに<ケネディ>一家は<シェルを退職して>英国に戻った。この時すでに武官として東京に派遣されていたロイ・ピゴットが、彼のために、ロイターの社長<にかけあって>・・・東京におけるパートタイムの通信員という仕事を<斡旋してい>た。・・・
 1932年8月<に、ケネディは>・・・英国民の知性の恐ろしい低下・・・自分で判断できないと思った事柄には全く関心を向けない彼らの現状<について記している。>・・・
 <ロイターとの契約が切れて>1934年7月19日に帰国して間もなく、・・・ロイ・ピゴットが、<今度は>政府の暗号学校での仕事・・・の話をもってきた。・・・彼は・・・翌1935年10月1日付で、日本部での勤務を開始した。・・・
 1935年5月に<ある>出版社が、ケネディに日本と日本の諸問題というテーマで執筆を依頼してきた。・・・
 ケネディはこの本の中で、日本の満州における軍事行動を解説し、日本の行動をある程度正当化しようとし、さらに、中国における日英合同の軍事行動という考えを広めようとした。ケネディのこの著書は、『パンチ』誌の書評で・・・酷評を浴びる結果となった。<(コラム#4722)>・・・
 この書評から分かるように、ケネディも他の親日派の人々も、1930年代に高まりつつあった反日感情の根を摘みとることはできなかった。これには、三つの基本的な理由があった。まず第一に、最も熱心な親日家とは、かつて日本に暮らしたことのある人々であった。つまり、非常に少数であった。・・・第二に、日本大使館からの一貫性のないひどく馬鹿げた宣伝活動によって、せっかくの彼らの努力が絶えず邪魔された。そして第三には、日英関係の悪化に加えて、中国における日本軍の行動が、親日派の人々を居心地の悪い立場に追い込み、彼らの広報活動の大きな妨害となったことがあげられる。結局、ケネディをはじめとする親日派が敗北したのは、綿密な論争の末でのことではなかった。それは単に、反対勢力が数の上で圧倒的多数であったからであり、極東における状況の進展が彼らの意見を押し潰してしまうほどの勢いだったからである。」(310~315)
→「英国民の知性の恐ろしい低下」とは、私が累次申し上げているところの、大英帝国の斜陽化に伴って進展した英国人の矮小化がもたらしたものである、と言いたいところです。
 「親日家<が>・・・非常に少数であった」ことを私なりに補説すれば、質量ともに不十分であったということだと思うのです。
 (同じ陸軍軍人であっても、ピゴットは、伊藤博文の法律顧問を勤め、日本に造詣の深かった父親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88
から学究面での薫陶も受けたでしょうが、)ケネディのような人物は、大学教育を受けていない・・英国の陸士は訓練のみの1年弱のコース・・ので、学問を身に着けておらず、論文を書く訓練も受けていません。
 そんな彼のような人物には、日本人の考えを忠実に伝えることはできても、それを論理的かつ体系的に英本国の人々に伝えることまではできなかったと想像されるのです。
 (貴族のネットワークを活用して耳学問ができた、ということはあったでしょうが、チャーチルだってケネディ同様陸士だけしか出ていない人物です。そんな人物が大英帝国の運命を左右するポストになど、就いてはならなかったのです。)
 彼よりかなりマシであったはずのピゴットは、当時、まだ現役の陸軍軍人でした(ウィキペディア上掲)し、最適任であったと言えそうなクレイギーに至っては駐日大使でしたから、自由な立場で日本のために弁じるわけにはいきませんでした。
 極めて興味深いのは、「日本大使館からの一貫性のないひどく馬鹿げた宣伝活動によって、せっかくの彼らの努力が絶えず邪魔された」とケネディが記していることです。
 残念なことに、具体例も典拠もあげられていないのですが、それは、とりもなおさず、英国の現在の知日派にとっても、そんなことは常識に属する部類であった、ということを意味します。
 我が外務省キャリア達は、(戦前、そしてもちろん戦後も)、無能と退廃を絵にかいたような存在である、との私のかねてよりの指摘が第三者によって部分的に裏付けられたような思いがします。(太田)
2 サー・ヒュー・コータッツィ「日本協会百年の歴史」
 肩の凝らない読み物ですが、つまみ食いをしてみましょう。
 ちなみに、英国で日本協会(Japan Society)が設立されたのは、1891年です。(10)
 「1894年5月21日、3年目の年次晩餐会で挨拶をしたうちの一人、作家であり詩人であり、日本人を妻に持つ人物、サー・エドウィン・アーノルドは、「日本人はアジアにおけるギリシャ人である」と言明して、日本および日本人をほめちぎった。」(21)
 「<英国の日本協会の>1895年5月の例会での講演・・・終了後<の>・・・意見のやりとり<の中で、>ロイド船級協会の主任査定員であったマーテルが、日本はまもなく英国にとって手強い競争相手となるだろうと言い、日本の造船と製鉄技術の発達を説明し・・・日本は三千トンから四千トンの船を、英国より安く約四千ポンドで建造することができるようになると聞いていると述べた。この話は造船技師サー・エドワード・リードを憤慨させたが、かつての日本海軍の顧問イングルズ大佐は、マーテルの主張を支持し、「これからは、日本に用心しなければならない」と言った。」(17)
→立場の違いによって、日本の高い潜在能力に対する評価が微妙に異なるのが面白いですね。
 英陸軍に比べると出来の悪い英海軍の軍人は、自己実現的な不吉な予言をしたわけです。(太田)
 「日本協会は1913年1月に初めて英国王室から後援を受けることになった。」(39)
 「第一次世界大戦の終結とともに、日本協会は活動を再開し、戦時中減少していた会員数も徐々に増加したが、もはや、大戦前の数に達することはなかった。」(45)
→王室によるテコ入れにもかかわらず、「極東の土人」に対する関心は、「土人の欧米化」とともに褪せていったということです。(太田)
 「1923年5月11日の菱沼平治教授[広島高等学校の英文学教授]による「日本問題の主な特徴」という公演は、少なからず論争を引き起こした。教授は、日本にはいたる所に民主主義の徴候が見られるので、20年後には、「世界でも最も進んだ民主国家のひとつと見なされるようになるであろう」と述べた。しかし、彼は・・・日本における軍国主義の台頭はキリスト教の宣伝活動がもたらした結果である・・・<と>軍国主義の拡大を弁護しながらも、「日本の軍国主義が自国防衛の域を越えている場合もある」ことを否定はしなかった。そして、「国民の多くは現体制に反対であり、長年この体制を廃止しようと努力してきた」と述べた。教授によれば、日本にとって最も深刻なのは、「過剰人口」の問題であり、「そのために当然、南北アメリカ、カナダ、オーストラリア、シベリアといった広大で人口の希薄な土地に目が向いている。しかし、これらの土地を征服する意図があるのではなく、単に余剰人口を移住させたいと考えているだけだ」といい、さらに日本人に対する人種偏見や人種差別を批判し、これこそが「もっとも戦争の危険をはらむ要素」であると述べた。かつての日本協会の理事長であり、当時副会長の一人であったロングフォード教授は、・・・次のように述べた。
 日本人自らが、中国人や朝鮮人を受け入れようとしていないのに、・・・菱沼教授<が、>・・・欧米諸国が日本の労働者を平等に受け入れようとしないと言って抗議するのは、正しくないのではないでしょうか。
 ロングフォード教授はさらに、菱沼教授の<「軍国主義の原因をキリスト教宣教とする>歴史の解釈・・・は、日本の歴史全体をひっくり返してしまうようなものですと述べた。」」(57~58)
→講演内容の断片的な紹介なので、意味がよく分からない部分もありますが、菱沼教授が講師としてミスキャストであったことは争い難い感じがします。
 日本協会における日本人による講演に対するコメントが紹介されたケースのうち儀礼的なものでないのはこれだけですが、どれだけ顰蹙を買ったのか想像に難くありません。
 日本の人文社会科学の水準が戦前からいかに低かったかを示すものかもしれません。
 蛇足ながら、当時、英本国だってインド人やアフリカ人の移民受け入れを行っていたとは思えない一方で、日本は朝鮮半島の植民地人の受け入れは行っていたのではなかったでしょうか。
 いずれにせよ、日本本土の人口密度は当時も今も英本国に比べれば、しかも、可住面積を勘案すれば、著しく高いのであって、そんなところに、海外から移民を自由に受け入れられるわけがなかったのであり、この論点を含め、菱沼教授の講演内容や質問に対する彼の答えがいかに出来が悪かったか、ということが分かります。(太田)
(続く)