太田述正コラム#4754(2011.5.18)
<戦前の英国の知日派(その4)>(2011.8.8公開)
戦後の話は、原則取り上げないのですが、例外的に取り上げましょう。
「1942年4月1日の理事会において・・・日本協会の活動<は>正式<に>停止が決定した<ところ、>・・・1949年9月28日、・・・<に>開かれた臨時総会を以て、日本協会は復活した。・・・サー・ロバート・クレーギーが理事長に、ピゴット少将とジョージ・セイル大佐が副理事長に選出された。まだ、日本との国交が再開されていなかったので、会長の座は空席のままであった。・・・
<この>時、文化や教育に力点をおいていた<戦前における>かつての方針が弱まり、戦前最後の駐日大使で、戦後協会理事長となったサー・ロバート・クレ-ギーと、クレーギー引退後副理事長から理事長となったピゴット少将の指導のもとに、協会は以前より公然と政治的色彩を強め、日本を支持する傾向を強めた。」(66~67)
→クレイギーは、前駐日大使として慣例に従って理事長に就任しただけで、活動再開や活動方針はピゴットのイニシアティブによるものでしょう。
ピゴットは、日本人以上に日本人的な人物であって、戦前、戦中、戦後を通じて、一貫して日本政府に絶対的信頼を寄せ続けた、ということではないでしょうか。(太田)
「1952年6月12日の年次総会において、かつて副会長であった吉田茂と加納久朗子爵(戦後、日本では称号は廃止されたが、日本協会はこの時はまだ、称号に固執していた)、島津公[島津忠重]が、再選され副会長にとなった。・・・戦前最後の駐英大使であった重光葵・・・<も>副会長<になった。>
日本協会の『紀要』には、東京裁判で7年の懲役の判決が下された重光葵に関して、情熱と親しみのこもった多くの記述がみられる。・・・ハンキー卿、ピゴット少将をはじめ多くの英国人が、彼の判決を不当であると考え、彼を擁護するために闘った。
1952年10月発行の『紀要』第8号には、1946年2月、戦犯として処刑された本間雅晴中将に対する好意的なコメントが載っている。戦前、本間は大使館付武官としてロンドンに滞在し、日本協会の理事を務め、ピゴット少将と親しかった。・・・1952年8月22日の、同じく戦犯として判決が下った平沼騏一郎男爵の死去に際しては、彼のことを「すばらしい過去を持った」「老政治家」であると評したいくぶん穏やかな追悼記事を載せた。」(67~68)
→日本協会がピゴットの色で染め上げられた感があります。(太田)
「1953年9月29日に開かれた・・・講演会は、1948年に短期間首相を務めた芦田均による「今日の日本」と題する講演であった。ピゴット少将は、芦田を紹介するとともに、日本協会の二人の副会長、吉田と重光とが日本の再軍備化と、「軍隊」をつくることで合意したという前日の発表に対して、同慶のいたりであると述べた。
1954年10月、日本協会の副会長吉田茂の、現役の首相としては初めてのロンドン訪問に際し、10月26日に・・・日本協会とジャパン・アソシエイション合同によるパーティーが催され、・・・あいさつに立った吉田は、・・・「日本における軍閥の支配が強まって、日英関係が悪化し、ついには少数独裁のもとに、わが国は無謀で破滅的な戦争へと駆りたてられていった」と述べた。
かつて東条戦時内閣の閣僚の一人であった岸信介が、1959年7月に、首相の立場でロンドンを訪問した時には、日本協会、ジャパン・アソシエイション・日本商工会議所が合同で、7月15日に・・・パーティーを開<き、岸があいさつを行った>。」(67~69)
→ピゴットは、吉田ら外務官僚上がりが、自分達自身と外務省のエゴのために詐欺的「再軍備」をやった、などとは到底想像できなかったでしょうね。
吉田茂のあいさつの卑屈さと品のなさは、まさに国賊の面目躍如たるものがあります。
その5年後に、「少数独裁のもとに、<日本を>無謀で破滅的な戦争へと駆りたて<た>」一員であった岸が首相として日本協会のゲストになったのですから、1966年まで生き、恐らく、その時も出席していたであろうピゴットは、さぞかし目を白黒させたことでしょうね。(太田)
「かつての駐日大使で協会理事長であったサー・エスラー・デニングが、1969年1月14日に・・・講演をした。この中で彼は、1894年から1900年まで駐日英国公使であったサー・アーネスト・サトウこそ、現地の言語を話すことのできた最初の全権公使であったことを聴衆に思い起こさせた。そして、「サトウは、結局、その後52年を経て私が駐日大使となる時まで、日本語を話せる最初で最後の全権公使だったのである」とも言った。」(73)
→ここは意外でした。というのは、1989年から2000年まで、私は(今はなくなってしまった)東京ロンドン会の会員として、そして、英国防大学OBとして、毎月のように英国大使館構内での催しに参加し、時の大使と歓談することも何度かあったけれど、当時は参事官で後に大使となって再び日本にやって来ることになるフライさん(Sir Graham Holbrook Fry。大使時代(2004~2008年)には会う機会がなかった)もそうだが、4代にわたる大使
http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/about-us/our-embassy/our-ambassador/previous-ambassadors
はみな日本語が流暢であったような記憶があるので、てっきりそれはアーネスト・サトウ以来の、戦前から連綿と続く伝統であろうと思い込んでいたからです。
これは、大英帝国を失ってから、腐っても鯛の英国が、従前以上に外交が重要になったと考え、外交に力を入れるようになった、ということを意味するのではないでしょうか。(太田)
(完)
戦前の英国の知日派(その4)
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