太田述正コラム#4768(2011.5.25)
<『東京に暮す』を読む(その3)>(2011.8.15公開)
「乗客・・・らは列に並んで自分の番を待つということをしないので、切符売り場や改札口では勝手に割り込んできます。彼らの頭には、目的地に早く着くことしかないのです。」(102)
→ここは、サンソム夫人、例外を一般化するという誤りを犯しています。
人間主義者たる大方の日本人は、今回の大震災の時にも、世界中の人々を驚かせたように、物資が調達できる場において・・いつかは必ず調達できるよう、他人ないし社会が取り計らってくれるであろうことを信じて・・整然と行列をつくるのが本来の姿(コラム#4762)なのです。
さて、夫人が観察したのは、通勤時の可能性が高いと思われるところ、そのような時間帯においては、電車の本数の割に通勤客の数が圧倒的に多く・・このような事情は昭和期末まで続いたように思う・・、しかも、日本人は決められた勤務開始時間・・正しくは、自分自身が決めたそれより若干早い出勤時間・・を必ず守ろうとします。
その結果、乗り遅れないように、例外的に「勝手」な「割り込」みが横行することにならざるをえない、ということなのです。(太田)
「日本人は、自分と家の両方を守ろうとします。家族の階層のどこに位置しようと、すなわち一番下の若者であろうと、最高位のすぐ下の熟年の長老であろうと、家長本人であろうと、自分自身の態度と行動の他に、共同生活体の他のメンバーの態度と行動も考慮しなくてはなりません。・・・彼は日本人であり、・・・職業が何であるかだけでなく、ある家族の一員なのであり、その家族の一員としての義務を果たさなくてはならないのです。
このような環境では当然自己を抑制するようになります。」(117、119)
→前に申し上げたことの部分的に繰り返しになりますが、戦前の日本には家制度があったので、何かと言うと家という場が引き合いに出されるところ、サンソム夫人自身が日本国という場や職業集団という場に言及しているように、個々の日本人は、様々な種類、様々なレベルのいくつもの場に同時に所属しており、それぞれの場、すなわちそれぞれの人間(じんかん)のネットワークの中で、生き、生かされている、ということなのであり、このことを、「自己の抑制」とか「義務」という言葉を使って説明することは控えた方がいいのです。(太田)
「日本人は美しいものを見逃しません。日本人は美を賞でる心を持って生まれてきたようです。」(93)
「日本人の礼儀正しさは、優雅な話し方やマナーのよさばかりでなく、他人との交際において利己的にならないということだからです。外国人だったら自分のことを色々と話しますが、日本人は自分のつまらない話をしては相手に悪いと考え、どんなに悲しい時でもそれには一切触れず、一般的な世間話しかしません。」(146)
「日本人には私たちにはない落ち着きがあります。人生が彼らの中や傍を流れていきます。彼らはあせって人生を迎え入れたり、人生の舵を取るようなことはしません。流れが運んでくるものを受け取るだけです。流れてくるものが富や高い地位であっても、驚いたことに彼らは何気なく利用するだけです。その後も依然として地味な生活を好みますし、他の国民のように気取ることもないので、たとえ運が傾いたとしても私たちのようにショックを受けることはありません。高官や金持ちの質素な暮しと、身分の低い者の暮しは大して違いません。どちらも優雅で無欲です。」(148)
「美しく愛すべき国土を持つ日本人・・・は、自然を非常に大切にする心が、アジア人の優しい心を一層強くしているといえます。日本人は自然を愛するだけでなく、私たちとは違って、今でも自然の中に生きています。だからといって日本人の中に旺盛な精神の持ち主があまりいないというわけではありません。ここ半世紀の間に彼らがやり遂げたことの一片でも知る人は、その逆が正しいことを知っています。
日本人はいつでも辛抱強く、しかも楽しそうにその時々の状況を受け容れています。」(155)
「家族の者<は>厭な顔一つせず、老人が最後まで無事に暮らせるように面倒を見ます。・・・日本では、西洋でよくあるように老人や老婆が財布ばかりか、財力がもたらす権力にしがみついて離れないというような浅ましい姿はほとんどみられません。そのことで若者はもちろん助かるし、実は老人だって大いに助かっているのです。」(158)
「日本人は、・・・私たちと違って人生にいろいろと期待を持つわけではなく、所有欲もはるかに少ないということがあります。・・・
概してお高くとまることがないという日本人のもう一つの特徴<があります。>・・・古い伝統をもち、とても育ちのよい日本人にとっては、威厳というのは自然に出てくるものなのです。特別な訓練を受けなくても、彼らの眼は率直で鋭く、気取った外国人の愚行などはすぐに見抜いてしまうのです。」(164~165)
→もちろん、ここには若干の誇張や単純化、そして理想化はあるでしょう。
とまれ、サンソム夫人のような鋭い観察者から見ると、日本人は、(彼女自身は全くそのような総括の仕方はしていませんが、)釈迦の説いた人のあり方を文字通り実践している人々と言ってよい存在であったわけです。
仏教というのは、何の夾雑物もない狩猟採集時代の(私の言葉で言うところの)人間主義的な生き方を奨め、かかる生き方が再びできるようになるための方法を教える世界宗教である、という趣旨のことを以前(コラム#4707で)申し上げたことを思い出してください。(太田)
(続く)
『東京に暮す』を読む(その3)
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