太田述正コラム#4772(2011.5.27)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その1)>(2011.8.17公開)
1 始めに
 今度は、宮里さん提供の、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書 2010年4月)をてがかりにして、伊藤博文という人物に迫ってみたいと思います。
 ちなみに、瀧井は、1967年生まれ、90年京大法卒、94年法学博士、国際日本文化研究センター准教授、という経歴の人物です。(この本の奥付より。)
 読んでも全く情報が増えませんが、一応彼のウィキペディアもあります。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%8D%9A
2 伊藤博文
 (1)序
 この本のあとがきをまず読み、次いで103頁まで読み進んだ時点での感想ですが、サントリー学芸賞をとったにしては、何とも説得力のない議論が展開されている本だなあ、というものです。
 恐らく、この本全体がそうなのでしょう。
 それがどういうことかは、このシリーズを読み進められるにつれて、おいおいご理解いただけるはずです。
 その瀧井は、日本でのこれまでの伊藤博文像を、坂野潤治、司馬遼太郎らを引用しつつ、以下のように要約しています。
 「西南戦争後の大久保利通政権の確立に際しては大久保に扈従してその開発独裁路線のお先棒を担ぎ、大久保没後、立憲運動が昂進するや井上毅の唱える超然内閣主義のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名を恣にする。さらに議会開設後は不倶戴天の敵であったはずの民権派の自由党と提携し、ついには同党を土台として立憲政友会を創設して政党政治家へと身を翻す。このような時流に応じてのカメレオンぶり・・政治家としての一貫性の欠如・・・」(vi)
 瀧井が、このような、あまりにも粗雑なこれまでの伊藤論を叩きたくなった気持ちは分からないでもありませんが、もう少しやりようがあったのではないか、ということです。
 (2)伊藤博文の助走期間
 「伊藤は・・・1862年(文久二)12月には、高杉晋作らによる品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き打ちに参加、その数日後には、国学者塙次郎(忠宝。塙保己一の息子)が廃帝の故事を調査中との誤伝を信じて、山尾庸三とともにこれを斬殺している<(注1)>。この点を指して、伊藤は歴代の総理大臣のなかで、戦場以外で殺人を犯したことのある唯一の人物(酔って妻に乱暴し、死に至らしめたと噂される黒田清隆を除けば)と言われる。
 松陰没後の伊藤は、このように立派なテロリストであ<った。>」(5)
 (注1)「1862年・・・老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府の外国人を待遇の式典を調査するも、誤って孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの巷説が伝えられ、勤皇浪士達を刺激してしまった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E5%BF%A0%E5%AE%9D
→若いころに過激派であったことは、必ずしも悪いことではありますまい。(太田)
 「松陰が伊藤のことを「周旋家」と評したことはよく知られている。・・・この他の松陰の伊藤への言及としては、「・・・好んで吾に従ひて遊ぶ。才劣り学おさな<(漢字だが読み下した)>きも、質直にして華なし。僕頗る之を愛す」・・・という一節が残されている。・・・<つまり、>勉強熱心で快活だが、才覚には劣った愚直<者ということだ。>・・・松陰は伊藤のことを交渉能力に長けた能吏になるかもしれないとは思ったであろうが、国家の経綸を差配する地位に立つ器とはおよそ考えていなかったに違いない。・・・
 伊藤は過激な精神主義者松陰よりも、冷静に日本の行く末を熟慮し、そのための政略を重んじた長井・・・雅楽<(注2)>・・・のほうに共感を示している・・・。」(6~7)
 (注2)「<長州藩主の>世子・・・の後見人<を経て>、長州藩の直目付となる。開国論者であり、・・・1861年・・・に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論となされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、11月には藩主敬親と共に江戸に入り老中久世広周、安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあ<った>。・・・1863年・・・、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹<させられる>・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD
→「吉田松陰・・・は、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、山県有朋」(5)らを育てた名教育者であり、恐らく吉田の伊藤評は正しいのでしょう。私なら、「遊びが大好きで、頭はそれほど良くなく勉強もできないが、性格が素直で浮ついたところがなく、みんなに愛され<るので、>・・・仲介交渉役に向いている」といった具合に現代語訳するでしょうね。
 「頭はそれほど良くなく勉強もできない」と言っても、長州藩内の俊秀の中での比較であり、学者にはなれなかったでしょうが、政治家にはうってつけな評価ではないでしょうか。
 なお、伊藤の吉田、長井評は、後付けでしょうね。(太田)
 「1863年<5月、>・・・長州藩・・・から・・・若者が国禁を犯してイギリスへと派遣された。それは、・・・井上馨、・・・そして伊藤<を含む>5人である。・・・
 <9月に着いてから半年後の1864年3月、>井上馨と伊藤博文・・・が、ある日、『タイムズ」紙上に長州藩による外国船砲撃や薩英戦争の記事を見て大いに驚き、藩の攘夷政策の無益であることを説得するために急ぎ帰国の途に就いた・・・。
 伊藤のイギリス留学<の意義であるが、>伊藤と井上は国難の只中に洋行帰りという箔をつけて帰朝し<たところ、>・・・四国艦隊による下関砲台の占拠という惨敗は、二人の持つ新しい知見の必要性を否が応にも高める結果となった。・・・
 もうひとつは・・・英語能力の習得である。・・・
 <この英語力を伴った伊藤の外国人とのコミュニケーション能力は、>外国船隊による長州藩攻撃の講和交渉において、藩と欧米人との間の交渉役を一手に引き受け<るという形で、さっそく発揮された。>」(8~12)
→瀧井が書いていない重要なことは、彼らが全員英国に派遣されたのはなぜか、です。
 米国は南北戦争(1861~65年)中であったから最初から対象外であったでしょうが、仮に平時であったとしても、米国には派遣されなかったはずです。
 英国は当時世界覇権国であり、最先進国でもあったことから、伊藤らは、最も学ぶべきところがある国である英国に派遣されたということです。
 習得すべき語学についても、それは、当然英語でなければならなかったわけです。(太田)
(続く)