太田述正コラム#4778(2011.5.30)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その4)>(2011.8.20公開)
 「1892年・・・1月という早い時期に<伊藤>は、議会の政府党を基盤にして政党を結成しようとしている。だが、このときは天皇の理解が得られず、失敗した。また、1898年の第3次<伊藤>内閣時にも彼は政党結成へと乗り出そうとしているが、山県有朋の反対に遭い、実を結ぶことなく終わった。
 このとき、伊藤新党問題をめぐって6月24日に開かれた御前会議で、伊藤に対して山県は「閣下の政党組織は遂に政党内閣の端を啓くに至らん、而して政党内閣制は我が国体に反し、欽定憲法の精神に悖り、民主政治に堕するものにあらずや」と論難した。伊藤は「政党内閣の可否を論ずるは抑々(そもそも)枝葉末節のみ、要は皇国の進運に資するや否やを顧みるに在り」と応酬した・・・が、大方の賛同を得られないことを認めるや、直ちに天皇に首相の辞任と次期首班として大隈と板垣の政党指導者を奏上し、下野した。」(119~120)
 「<日本にこうして>政党内閣が出現<した>のは、議会制度が開設されて8年後のことだった。1898年・・・6月、大隈重信を首班として、第一次大隈内閣が組閣された。・・・隈板内閣と称されるこの内閣では、大隈率いる進歩党と板垣を戴く自由党との野党大連合により結成された憲政党を基盤として、外相と陸相海相を除いた全閣僚が憲政党から抜擢された(板垣は副首相格として内相に就任)。」(118)
→外相は首相の大隈が兼務したので、瀧井の「外相と」という記述は間違いです。
 ちなみに、政党内閣と言っても、「首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠く」という見方もできます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E9%9A%88%E5%86%85%E9%96%A3
 いずれにせよ、日本の最初の政党内閣は、伊藤の画策によってもたらされたものであったわけです。
 なお、山県有朋は、日本における議院内閣制の漸進的実現に反対であったわけですから、英国模範論とでも言うべきコンセンサスが成立していた維新政府首脳達の中においては、例外的な存在であったと言うべきでしょう。(太田)
 「1899年・・・4月9日、伊藤は・・・半年に及ぶ遊説<を始めた。>・・・
 そもそも、1899年・・・とは、憲法発布10周年の年にあたる。・・・
 <伊藤はこう語る。>
 憲法と云ふものに就いては、先輩の遺志を継いで而して、今上皇帝の勅命の下に私は欧羅巴に遣はされ、之を取調べて帰って来て、其草案を奉り、欽定憲法と相成って発布致されたものであるから、此憲法と共に生死するの無限の責任を負ふて居ると考へる。故に此憲法に就いては、如何なる学者が来やうが如何なる政党が出ようが、其屈すべからざる所に於ては私は屈せざる積りである。」(120、127、128~129)
→「先輩の遺志を継い<だ>」というくだりですが、私には、憲法の中身の骨子についても「先輩の<コンセンサス的>遺志を継い<だ>」のである、と伊藤が言っているように感じられます。(太田)
 「<伊藤は、また、こうも語る。>
 富に頼らなければ人民の文化も進められぬ。愛国心の発達も是れよりしなければならぬのである。国を護ると云ふけれども、赤土を護つた所で何の役にも立たぬ。・・・
 その際、伊藤の脳裏にあったのは、日本は文明国たらねばならないという意識であった。・・・
 では、・・・文明国とはどのようなものと・・・伊藤・・は観念<し>ていたのか。・・・
 文明の政治なるものは即ち人民の智能を発達し、而して一定秩序の範囲に於て人民の当(ま)さに享取すべき権利を得て、而して其れを統合した所のものが文明的の国家でなければならぬ。
 知的水準が高く、権利の保障された人民によって構成される国家、それが文明国だという。・・・
 <また、>国民の意思、国民の観念なるものは、議会と云へる一の機関に依つて之を発表すると云ふのが、憲法政治の一つの要素でありまする故に、憲法政治は文明の政治と云ふ言葉の代表となつても宜しい位のことである。
 <つまり、>文明国、議会制、憲法–これらは三位一体のものとして伊藤のなかで把握されていた。そのうち起点をなすのが憲法である。」(132~133、136)
→私であれば、伊藤は、維新政府首脳達の中の典型的な存在として、資本主義、及び自由民主主義、並びに、資本主義と自由民主主義に係る規範の英国における到達点を取りこんだ帝国憲法解釈とを、日本で実現すべき三位一体的なものと考えていた、と記したいところです。(太田)
 「伊藤は、国家に納税する国民が、国家の統治をチェックし方向付けるという意味で国民国家を考えていたのである。もとより、その国民には一定の要件があった。それは一つには財力、そして第二に知力である。この二つの力が国力の基盤だと伊藤は説く。・・・ <知力を涵養するものは教育だが、>伊藤にとって、教育とは・・・実学<でなければならなかった。>実学とは具体的に何なのか。・・・第一に挙げられるのが、非政治性ということなのである。<すなわち、伊藤は、>「政談の徒」を「暗消」することを提唱していた。・・・
 実学の第二の意義は、・・・イギリスの経験主義<的なものであった。>・・・
 <伊藤は、>ラクダ・・・の生活・・・を研究するに、フランス人は動物園へ行き、ドイツ人は書物を求めるが、イギリス人は実際にラクダの生息する地へ赴くとして、その実地主義的姿勢<を>持ち上げ・・・ている。
 実学の第三の側面は、実用性である。
 <伊藤は、>学問は「手段に過ぎぬ」と言い切<っ>ている。それは人が世に出て行くための「階梯」なのだ、と。」
(140、142~143、145~147)
→瀧井は、伊藤は「一見・・・学問を実利主義的に貶めた物言いだが」必ずしもそうではない、と伊藤を弁護しています(147~148)が、私は、やはり伊藤は学問を貶めていると考えます。
 学問を実学としか見ることができないという点も、恐らくは維新政府首脳達のコンセンサスであったのでしょう。
 それは、東大を始めとする国立大学が実学の府として発足し、発展を続けたことを見れば明らかでしょう。
 この点に関しては、伊藤を始めとする維新政府首脳達の英国理解は全くもって不十分であったと言わざるをえません。
 その結果、日本の国公立大学は、法人化された現在に至ってもなお、真の学問の府たりえていないのですから、伊藤らの罪は重い、ということです。
 (日本の私立大学においても事情は同じであり、その責任は慶應を実学の府にした福沢諭吉が負うべきであるとする議論はここでは繰り返しません。)(太田)
(続く)