太田述正コラム#4782(2011.6.1)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その5)>(2011.8.22公開)
「1900年・・・9月、伊藤博文を初代総裁として立憲政友会が結成された。それは、わが国初の政権運営能力を持った責任政党の誕生として特筆される。・・・
明治憲法制定時の発言を引き合いに出して、伊藤は政党内閣を否定する超然主義者だったと断定されるのが一般的である。そのような理解に立てば、立憲政友会の創設は、伊藤にとって本意ではなく、「已むを得ざる結果」と結論づけられることになる。・・・
明治憲法の真の起草者が<伊藤ではなくて>井上毅とされるように、専門家の間では政友会の真の設計者は星亨であり伊藤巳代治であると考えられているのである。」(151~152)
→これまでの日本の政治学者や歴史学者は、一体何をやっていたのだ、と思ってしまいます。(太田)
「筋力と腕力」とは、政党抗争が過熱化していた当時の合言葉と言えた。「金力」とは政党による地方への利益誘導である。その先鞭をつけたのが星である<(拙著『防衛庁再生宣言』192~193頁)>ことは、しばしば指摘される。・・・
他方で、政争の高揚は腕力<(暴力)>の横行をもたらしていた。・・・
伊藤の遊説はこのような政治的文脈のなかで敢行されたものだった。しかしそれは同時に、そのなかに埋没することをひたすら拒否する意志でもって遂行されたものでもあった。」(157~158)
→爾後、伊藤らの尽力により、権力をめぐっての「金力と腕力」の行使は抑制されるようになったものの、戦後、吉田ドクトリンの下、中央政治の矮小化により、再び「金力」が跋扈するようになったことを我々は知っています。(太田)
「興味深いことに、この時期彼は政党政治との距離感を重ねて表明していた。例えば次のように。「私は特に政党内閣を希望するものでもなく、又政党政治を妨げるものでもない」・・・。
この何とも煮え切らない言い回しの背後には、既存の政党政治を是正しようとの政治的意志があった。換言すれば、彼は立憲政治と政党政治を峻別し、前者によって後者を相対化しようとしていたのである。・・・
<伊藤に言わせれば、>議会制度の国民の参政権は、欽定憲法によって天皇から下賜されたものである。「天子が下民に向かつて綸言汗の如く布かれたものであるから、此れは万古不易、決して動くべからざるもの」であり、つまり「憲法を以て与へられた所の此権利は決して奪はるると云ふことはない」とされる・・・。
欽定憲法ということからは通常、天皇が単独で憲法を国民に授与したものであり、国民の権利を抑制し、天皇の強大な政治的体験を留保したものとのイメージが導かれる。けれども伊藤にあっては、欽定憲法による国民の政治参加の権利と機会の保障という側面が大書され、しかもいったん下された権利は主権者ですら「妄りに之を奪はぬ」ものとされるところに憲法の真価が求められているのである。」(160~161)
→伊藤は、国王に抗して国民の権利を保障するという役割も果たしているところのイギリスのコモンロー(判例法体系)の基本を、自分は、オーストリア憲法を参照しつつ、帝国憲法に書き込んだ、という認識であったのではないでしょうか。(太田)
「憲法政治の主眼たる目的は[中略]一国を統治遊(あそば)す所の 天皇と国を成す所の元素たるべき人民とが合い調和して睦しくしやうと云ふのが目的である。・・・
このように、宥和と統合こそ伊藤の立憲国家観が帰着するところであった。それは何も天皇と国民の間のことに限られない。・・・政府と議会との調和も呼びかけられる。のみならず、・・・彼は政争の中止と国民協働による「国家事業の進歩」を呼びかけているのである。・・・
英吉利(イギリス)の憲法政治はなぜ斯(かく)の如く能く往(ゆき)て、外の所は能く往かんかと云つて聞いて見ると、取も直さず英吉利人は譲歩の心が強い。外は譲歩の心が少ない。譲歩の心の少ない者は、憲法政治には不適当な人民である。」(162~164)
→ここは、伊藤が、コモンローがイギリスにおいて国民の宥和と統合をもたらしている要因の一つである、という認識の下、同様の宥和と統合の日本国民の間での達成を憲法政治が促進することを期待し、憲法政治にこのような認識の下で積極的に関わることを国民に求めた、と解することができるのではないでしょうか。(太田)
既存の政党のあり方に批判的だった伊藤は、自ら政党を組織することを決意するが、現実の結党過程において・・・大隈や福沢とのつながりの深く、進歩党シンパの岩崎<弥之助の>邪魔<等により、>・・・自らの構想する実業家層の動員に挫折し、結局は・・・憲政党」(旧自由党)の星亨・・・と伊藤巳代治・・・の手腕に依拠せざるを得<ず、>・・・既成政党の枠組みのなかで政友会は建立されざるを得なかった。」(172、174、176)
→伊藤は、維新政府首脳達の英国模範コンセンサスを、漸進的かつ次々に日本で実施に移そうとしたわけですが、抵抗勢力を克服するのは、その都度、容易なことではなかったわけです。(太田)
「伊藤は、新党の規約を伊東<巳代治>に内示している・・・。
その哲学を三つにまとめれば、・・・第一に党と内閣・政府との峻別、第二に中央政治と地方自治の区別、そして第三に党内における総裁の強い指揮権、以上の三点である。・・・
<第一については、>伊藤<は>イギリスの保守思想家エドマンド・バークの「代議士は国民全体の利害の奉仕者」との言葉を愛好していた・・・。
第二は、・・・伊藤は闘争を原理とする政党政治は中央政界に限局され、地方においては協同を原理とする自治が行われるべき<であると考えていた。>・・・
最後<の第三については、>・・・彼がしばしば引き合いに出していたのが、グラッドストーンと並び称される19世紀イギリスの議会政治家ディズレーリである。
ヂスレリー[中略]は斯う言ふて居る、「英国の宰相は自己の党派に対して忠実ならざるべからず、党人は其首領に対して絶対的に忠実ならざる事を得ぬ」<と。>」(179~180、182、184)
→第一と第三については説明を要しませんが、第二についても、伊藤は、「イギリスの地方自治体では首長の公選は<基本的に>実施されてい<ない>。・・・市議会の議長(多数党派から選出)が市の代表とされ、議会<各党派>が<協同的に>行政執行責任を負うかたわら、<執行のプロを選任し、>自らその執行を監視する役目を果たしてい<る>。」
http://www.asahi-net.or.jp/~pv8m-smz/archieve/siraki_uk_report1.html
というイギリスの地方自治のあり方が念頭にあったと考えられます。
すなわち、伊藤は、政治に関しても、イギリスを模範とし、その政治の主流のあり方を、基本的にそっくりそのまま、ただし漸進的に日本に移植しようとした、ということであり、これは維新政府首脳達のコンセンサスを踏まえたものであった、と我々は受け止めるべきなのです。
なお、伊藤が、なぜ立憲政「党」ではなく立憲政「友会」にしたかという話も面白いのですが、割愛しました。
(続く)
『伊藤博文 知の政治家』を読む(その5)
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