太田述正コラム#4786(2011.6.3)
<日本文化論の人間主義的批判(その2)>(2011.8.24公開)
「昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。・・・
日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。・・・
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。」(イザヤ・ベンダサン『ユダヤ人と日本人』)
→最後の段落の方から行きましょう。
英語圏では日本語の評論家に相当するのは、狭義のcommentatorであり、Pundit (expert)とSports commentatorとColor commentatorからなると言ってよさそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Commentator
この三つのうち、後の方の二つは、日本語では一括りにしてスポーツ評論家ということになるでしょうが、Pundit(expert)とは一体何なんだ、ということになります。
米国では、ニュースキャスターと学識経験者がそれにあたるようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pundit_(expert)
しかし、英語圏では、それ以外にも、writerという言葉がありますが、これは文筆でもってメシを食っているところの作家、著述家、記者等がすべて含まれます。
http://ejje.weblio.jp/content/writer
うち、著述家の相当部分が日本語の評論家に該当すると考えられます。
私が何が言いたいかというと、イザヤ・ベンダサン・・その正体論争には立ち入らない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B5%E3%83%B3#.E5.B1.B1.E6.9C.AC.E4.B8.83.E5.B9.B3.E3.81.AE.E7.99.BA.E8.A8.80
・・は、少なくとも英語圏、とりわけ米国で、日本語の評論家に相当するものを何(と何)であると考え、かつ日米それぞれの評論家の数を何によって調べ、その結果はどうであったのかを明らかにしなければならないのに、それを一切していなのですから、こんなくだりをまともに受け止めるのはばかばかしい、ということです。
それに、そもそもこの話、日本人の言動の病理と何の関係があるのか不明です。
さて、それ以外の部分についてですが、そこはベンダサンさん、仏教、就中禅、とりわけ公案とは何か
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85
という問題と、日本におけるディベート(議論)の伝統の希薄さやディベート教育の欠如という問題とをごっちゃにしています。
まず、「公案の多くが自己矛盾的文体を為して」いる(ウィキペディア上掲)のは、当然であり、だからといって、日本人が自己矛盾的文章を書いたりしゃべったりしているわけではありません。
他方、日本におけるディベート伝統の希薄さは、日本が人間主義社会であることのコストのようなものであるところ、全球化した今日、それでは立ちいかないので、少なくとも日本のリーダー予備軍に対しては、積極的なディベート教育を幼少の頃から施さければならない、と私自身は考えています。(太田)
「丁度 葉裏 (はうら) に隠れる虫が、鳥の眼を晦 (くら) ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着 (とんじゃく) すべき所以 (いわれ) がない。黄変色するのが当たり前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。」(夏目漱石『マードック先生の「日本歴史」』)
→寺嶋サンは、このくだりを「日本人の無力さ (無哲学・能天気) 」つまり、日本人に科学する心のないことを漱石が示唆している、と無理やり(?)解しています。
現在でこそ、少なくとも自然科学に関しては日本人の間にも科学する心が定着していると思いますが、確かに、かつての日本ではそうではありませんでした。
しかし、ここでの科学を、イギリスに由来する近代科学、すなわち経験科学に限定すれば、最も古い科学学会が17世紀にイギリスで設立された
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%AB%8B%E5%8D%94%E4%BC%9A
ことが端的に示すように、それは、17世紀頃まではイギリスにしか存在していなかったわけであり、かつての日本にかかる意味での科学が存在しなかったことをもって日本の病理の表れとみなすのはナンセンスです。(太田)
「日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。・・・この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。」(カレル・ヴァン・ウォルフレン 『日本/権力構造の謎 』)
→「仕方がない(しかたがない)は、理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりしたさいに、粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84
であって、今次大震災の被災者の大部分が、嘆いたり怒ったりせず、希望を失わずに冷静に対処していたことは国際的にも高く評価されたところ、これぞ「仕方がない」精神の発揮であり、日本人の病理ととらえるべきではないでしょう。
いわんや、「仕方がない」精神が、市民精神の醸成や民主主義の成熟化を阻害しているなどというウォルフレンの指摘はピントはずれもいいところです。
人間主義は、古から最高度の市民精神を日本人に付与しており、かつまた、日本の民主主義は、戦前、既に成熟していたからです。
もとより、戦後の日本は米国の属国であり、その結果中央政治がなきに等しいという意味では日本の政治は極めて異常な状況が続いているわけですが、それは、また別の話です。(太田)
3 終わりに代えて
日本語論と言えば、下に掲げたものは、寺嶋サンのアブナイ日本語論よりは、はるかに傾聴に値すると思います。
「・・・まず、文化的な問題では、日本は単一民族であり、言語・知識・体験・価値観・ロジック・嗜好性などが、多民族国家と比べると、非常に近い環境にあります。そのため、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、情報伝達ができる土壌があります。この傾向が強くなると、共通項が多い仲間同士では、ツーカーで気持ちが通じ合うことになりますが、その環境が整わないと、今度は一転してコミュニケーションが滞ってしまうことになります。
次に言語的な問題として、日本語は断片的な情報を適当につなげて、自由自在に文章をつくることができるフレキシブルさを持っています。このため、日本人は話す前にプランをつくらず、思いついた言葉をそのまま羅列してアウトプットしてしまう傾向があります。
加えて日本社会ではこのような話し方をされても、聞き手側の努力で理解してしまうので、自分の情報整理能力の低さに気づかない人が非常に多いのです。・・・」
「日本/聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。
直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
曖昧な表現を好む
多く話さない
論理的飛躍が許される
質疑応答の直接性を重要視しない
欧米/話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。
直接的で解りやすい表現を好む
言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
単純でシンプルな理論を好む
明示的な表現を好む
寡黙であることを評価しない
論理的飛躍を好まない
質疑応答では直接的に答える 」
http://www.pan-nations.co.jp/accountability_e_002.html
人間主義社会の日本では、言霊(注)的発想があったり、俳句的であるところの言葉の断片と余白による応答がなされたり、連歌的であるところの、テーマや理論が少しずつズレて展開される人社系論文が書かれたりする、というわけです。
(注)「自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A
日本人は、こういったものを捨て去る必要はありませんし、日本が人間主義社会である以上は、捨て去ることはそもそも不可能です。
しかし、繰り返しますが、日本人のリーダー達に関しては、ディベート能力も身に着ける必要があるのであって、さもないと全球化した現代の世界において、日本が存続、発展することは不可能である、ということなのです。
それにしても、日本人論は、日本人が唱える場合は日本や日本人を卑下したり自虐的に見るものが多く、外国人が唱える場合も日本や日本人を貶めるものが多いですね。
しかし、こういったものが、観点さえ変えれば、とりわけ、私の言う人間主義の観点から見た場合、日本や日本人に対するおおむね高い評価へと180度変異しうることがお分かりいただけたでしょうか。
なお、日本を人間主義社会と見るのも一種の文化論ではないかという反論が予想されますが、かかる見方は経験科学の成果を踏まえたところの日本社会の客観的分析の結果であって、決してエセ科学たる文化論の類ではないことは、太田コラムの長年の読者の方ならお分かりのことでしょう。
(完)
日本文化論の人間主義的批判(その2)
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