太田述正コラム#4788(2011.6.4)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その6)>(2011.8.25公開)
(4)伊藤博文と日本の対外政策
「<1906>年3月に<伊藤は>初代韓国統監に就任し、精力的に韓国の保護国化を推進してい<っ>た・・・。<ところが、この年の7月に勃発したハーグ密使事件・・・<(>韓国皇帝高宗<が>・・・ハーグ平和会議に密使を派遣して日本の韓国統治の不当性を国際社会に訴えようとした<)>・・・<により、高宗は>退位を余儀なくされる。この結果、第三次日韓協約が締結され、これによって法令制定や重要な行政処分の承認権、官吏の任免権など統監による幅広い内政の指導監督権限が認められた。翌月には韓国軍隊も解散され、日本は実質的に韓国を併合した・・・。・・・
伊藤の統監政治は、これまで韓国植民地化の一齣としてのみ取り扱われてきた。それは韓国併合を地ならしするものでしかないとの消極的な評価である。」(287~289)
→少し言い方を変えて繰り返しますが、日本のこれまでの政治学者や歴史学者は、石頭的マゾヒストばかりであったと言われても仕方ないでしょうね。(太田)
「伊藤の盟友井上馨は、1894年10月から約半年間韓国に滞在して同国の内政指導に従事した(第二次甲午改革)。しかし、稲生上が1895年6月に帰国した折に、高宗によって改革を否定する詔勅が下され、井上の改革は挫折を余儀なくされた。・・・
1899年2月14日、伊藤は・・・韓国で日本語教育の普及に努めていた大日本海外教育会に招かれてスピーチをした。・・・
・・・<(韓国や)清国のように>文明的の学問に幼稚なるものに宛て東洋の率先者たる我国が誘導する時は、自ら助勢するの利あるを以てなり。畢竟這般(しゃはん)の事柄は双方の幸福を増す所以にして、又徳義上我国の義務に属するものなるを覚悟せざるべからず。<と。>・・・
1904年・・・3月、日露開戦からほどなくのこの時期、伊藤は韓国を訪れた。・・・18日と20日、伊藤は皇帝高宗と対面した。・・・
高宗に対して・・・<彼が>陳奏した・・・主なる点は以下の通りである。一、東洋平和の維持のために欧米諸国を範として文明を増進し、自立を図ること、二、異なる人種や宗教を排斥して、欧米文明に敵対したりしないこと、三、国家の存立のため、自国の風俗習慣のうち害となるものには改良や廃棄の策を講じること、四、以上は日本がこの30余年間とってきた主義であり、清韓2国もそれに倣って欧米文明と調和して自強の道を歩むべきこと、五、欧米文明の形を借りて侵略を図るロシアはこれを排除すべきこと、六、近来の交通機関の発達に伴って国際的な意思疎通が活発となり、その結果「有無を交換し、人生の為めに必要なる物資を増殖し、逐次に其富強の実を挙げ、以て其自立を図り、[中略]国家生存の道を競争の間に求むる」のが文明というものであり、これを暴力で阻害しようとする野蛮を許してはならないこと・・・。
1904年8月の第一次日韓協約は、日本政府の推薦する日本人財務顧問と外国人外交顧問の雇用を定めたもので、これによって大蔵省主税局長の目賀田種太郎と外務省雇のアメリカ人スティーブンスがそれぞれ顧問に採用された。・・・
1905年・・・9月のポーツマス講和会議でロシア<が>・・・日本<による>韓国の保護国化・・・を認めた・・・。・・・
・・・1905年11月に締結される日韓協約(第二次日韓協約)では、「専ら外交に関する事項を管理する為め」(第三条)日本人の統監を置いた。しかし、当初から日本の韓国保護政策には内政の掌握も意図されていたのである。・・・
1906年7月3日<に、伊藤は、>・・・「自分の此の地に来任せるは韓国を世界の文明国たらしめんと欲するか故なり」<と述べている。>」(290~293、298~299)
→瀧井は、わざわざ「伊藤の盟友」井上馨という書き方までして、伊藤の「知の政治家」としての偉大性をプレイアップしようとしていますが、実のところ、以下説明するところの当時の日本の人間主義的対外政策もまた、維新政府首脳達の間でのコンセンサスだったのであり、たまたま伊藤が、そのうちの対韓政策において重要な役割を果たした、ということに過ぎないことが、井上馨の登場からお分かりいただけるのではないでしょうか。
さて、伊藤が高宗に教え諭したところの韓国改革の方向は、要するにイギリスを模範とせよということであって、文明化・・資本主義化と(この段階では相手の理解度を慮って明確に触れられていないが)自由民主主義化(後述)、そして対ロシア安全保障政策の遂行であったわけです。
また、「我国が誘導する時は、自ら助勢するの利あるを以てなり。畢竟這般(しゃはん)の事柄は双方の幸福を増す所以」というくだりから、人間主義的対外政策が、というか、人間主義が、利他的ではあっても必ずしも利他主義的ではない(コラム#4739)からこそ、維新政府首脳達はかかる対外政策を採用し、追求した、ということが分かります。(太田)
「1906年・・・10月、新渡戸稲造が訪韓した折・・・伊藤<に会ったが、>・・・開口一番、伊藤は「朝鮮に内地人を移すといふ議論が大分あるやうだが、我輩はこれに反対しておるのぢや」と述べた。「然(しか)し朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」と新渡戸が反論したところ、伊藤は次のように返したという。
君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥(はるか)以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かったのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない。」(300~301)
→伊藤が人間主義者であるとともに、人種主義的偏見から完全に自由であったことがうかがえる箇所です。
また、瀧井が、「この証言によれば、伊藤はなるべく韓国人の潜在的自治能力を開発し、彼らが自ら自国を経営していけることを理想としていた」と総括したのは正しいのであって、ここからも伊藤が民主主義の韓国への普及もまた追求していた、ということが読み取れるというものです。(太田)
(続く)
『伊藤博文 知の政治家』を読む(その6)
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