太田述正コラム#4792(2011.6.6)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その8)>(2011.8.27公開)
 「伊藤が<韓国>併合を口にしたことはない。公にはむしろ「合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり」(1907年7月29日・・・)と慎重論を唱え続けた。
 伊藤が翻意して併合を認めたのは、1909年・・・4月である。桂<太郎>首相<と>小村寿太郎外相は・・・伊藤に併合の直談判を行うことに決し、4月10日、・・・上京中の彼のもとを訪問した。・・・
 <当時、>間島はじめ満州問題の一括解決を護持して譲らなかった中国政府に対して日本は譲歩し、満州問題を切り離して朝鮮半島の確保に踏み切ったのである。・・・。韓国併合は、満州権益の一時的断念とセットで決定されたのだった。
 伊藤が韓国併合に同意したのは、おそらくそのような背景があってのことだろう。・・・
 では、併合後の伊藤は韓国統治をどのように構想していたのだろうか。・・・
 韓国八道より各10人の議員を選出し衆議院を組織すること
 韓国文武両班の中より50人の元老を互撰を以て撰出し上院を組織すること
 韓国政府大臣は韓人を以組織し責任内閣とす(ママ)為すへきこと
 政府は副王の配下に属す・・・
 国家としての韓国を解消させたとしても、そこには独立の植民地議会を設け、最大限の自治を保障するという考えを伊藤は抱いていたのである。・・・
 筆者には、右の構想のなかには韓国民の文明度が高まり、自治能力が備わって議会政治が根づいた暁には、韓国再独立の道が開かれ真の日韓同盟が築かれるとの伊藤の夢が託されているように思えてならない。」(339~343)
→ここでの瀧井の結論に全面的に同意です。
 なお、検証が必要ではあるものの、1909年の時点で、このような開明的な将来構想を植民地について抱いていた政府首脳(伊藤の場合は植民地総督を兼ねる)は、欧米列強においては、フィリピンの最終的独立を最初から視野に入れていた米国のケース
http://en.wikipedia.org/wiki/Philippine%E2%80%93American_War
以外には、恐らく皆無だったのではないでしょうか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_independence_movement :英領インドの例)
 ここでも、私は、植民地を文明化すれば当然いずれは地方自治が確立し、その先に独立があっても決しておかしくはないという発想は、日本の維新政府首脳達が、対外政策に乗り出すにあたって、当初からごく自然に共有していたに違いない、と申し上げておきたいと思います。(太田)
 (5)伊藤博文と憲政改革
 「1900年・・・9月<に>伊藤は立憲政友会の初代総裁の座に就いた<が、>これに先駆けて、彼はもうひとつ別の組織で総裁職に就いている。それは、1899年8月に宮中に設置された帝室制度調査局である。伊藤はここでも初代総裁として君臨した。・・・
 だが、・・・<伊藤による>立憲政友会の創設に伴い、・・・宮中で<の>職に<ある>ことは憚られたので・・・総裁の職を辞<した。>・・・
 同局が再び活性化するのは、1903年・・・7月、伊藤が政友会総裁を辞してからである。・・・
 調査局は皇室典範増補が公布された<1907年>2月11日をもって廃止されるが、・・・<この>年、・・・帝国憲法を最高法規とする「政務法」の系統と、皇室典範を最高法規とする「宮務法」の系統という、二元的な憲法秩序が出現した・・・のである。・・・
 <これには、それまでは、>皇室典範が国民に向けて公布されていなかったことに象徴されるように、・・御簾の内に隠匿されていた<ところの>宮中<が、>府中と並ぶ統治機構として法制上肯定<され、>・・・皇室を国家の機関として位置づけることが国制上の原則とな<った>・・・という意味合い<が>あったのである。・・・
 <すなわち、>そうすることによって、天皇および皇室の統治者性を形式化し、もって政治的に無責任化することが期され<たわけだ>。」(207、209~211、222)
→この時をもって、憲法解釈学説の動向(注5)いかんにかかわらず、天皇機関説が帝国憲法の公定解釈として確立した、と言ってよいのかもしれません。(太田)
 (注5)「東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、<この学説は、>国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。
 日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC
 「<また、>帝室制度調査局・・・は、・・・<それまで、>勅令の各省専任の行政事務に属する者は主任の各省大臣之に副署すへし<とされていたところ、>・・・すべての勅令・法律に内閣総理大臣の副署を求め、首相の権限を大きく強化する・・・公式令<を>・・・立案<し、これが制定された。>・・・
 合わせて既存の内閣官制も改正された。・・・内閣総理大臣による閣令制定権と警視総監・地方長官などに対する指揮監督権が明文化される。かくして・・・内閣総理大臣に強力な国政の統制権限が・・・付与されることとなった。」(212、227) 
 「<このような内閣総理大臣の権限強化>に危惧を抱いた山県有朋らの画策により、・・・<公式令にいわば対抗して、>従前の帷幄上奏の慣行を追認した軍令第一号(「軍令に関する件」)が制定され<た。>・・・<その結果、>1907年の憲法改革は典憲の二元体制のみならず、それに軍部も加えた三元体制<が>導出<され>たということになろう。・・・
 <しかし、もう少し詳しく見てみる必要がある。>
 内閣官制<の>第7条<は、>事の軍機軍令に係り奏上するものは天皇の旨に依り之を内閣に下付せらるるの件を除く外陸軍大臣海軍大臣より内閣総理大臣に報告すへし<と規定していた。>
 <つまり、>「軍機軍令」に関わる事項については、原則として内閣は通さず、事後的に軍部大臣より首相に報告すればよいということになっていた。
 <そこで、公式令との関係が問題になり、2007年>9月2日、韓国統監として赴任先の韓国より一時帰国した伊藤と山県が、・・・会談した。<結局、>統帥事項と行政の区画を判然とさせるために法令としての軍令<を制定することを山県が伊藤に>認めさせた。
 かくして、9月11日、軍令第一号たる「軍令ニ関スル件」が裁可成立した。・・・
 これをもって、帷幄上奏して発令される統帥事項には軍令の名が与えられ、そのうち公布(公示)される勅令は陸海軍大臣の副署のみで足りることとされた。公式令の成立以来、泰山鳴動したものの、結果としては・・・軍部がその法的地位を守り固めるかたちとなって決着した・・・のだった・・・。
 <しかし、果たして伊藤は山県に一方的に屈したのだろうか。>
 軍令の成立後、それまで陸軍大臣の単独輔弼で決せられていた勅令のうち少なからぬものが、軍令ではなく公式令に基づく勅令で、すなわち総理大臣との連署で改正されている・・・。軍令自体の数も抑制されていると言ってよ・・・<い。>
 このように考えてみると、・・・伊藤が軍令を認めたのは確かに妥協だったろうが、憲法改革の成果を今後さらに拡充させていくことで帷幄上奏をより一層制約し、軍行政の立憲化を漸進的に推し進めていくとの手応えは得たのだと考えられる。そして、そのための実践の場、それが韓国だった。・・・
 1905年12月21日・・・伊藤自ら起草した統監府および理事庁官制<が>公布された。・・
 <その>第4条<は、>統監は韓国の安寧秩序を保持する為必要と認むるときは韓国守備軍の司令官に対し兵力の使用を命することを得<と規定されていた。>・・・
 <これに対し、陸軍から反対の声が起こったが、伊藤は天皇を動かし、>1906年1月14日、明治天皇は陸相の寺内正毅、参謀総長の大山巌に手ずから勅語を授け、統監に韓国守備軍を使用する権限を付与するので、国防用兵の計画との間に齟齬が生じないよう命じた。・・・かくして、明治憲法下で唯一、文官が軍隊の指揮権を持ち得る官職ができたのである。その作成者たる伊藤は自らその地位に就き、3月2日、漢城に着任した。」(212、229、235~236、295~297、329~330)
→瀧井が、日本及び韓国の文明化を伊藤が推進したと指摘したことは高く評価されるべきですが、伊藤を持ち上げすぎた点には憾みが残ります。
 それはともかくとして、統帥権に対する伊藤の取り組みを論じたこの箇所は、この本の白眉であると言えるでしょう。
 一つだけ物足らなさを感じるとすれば、統帥権と一対をなすところの、外交権(コラム#4592、4604、4765)について、同様の問題は生じなかったのか、生じなかったとして、どうして生じなかったかに、一切触れられていない点です。
 いずれにせよ、軍隊の運用に対する(非軍人たる)首相の容喙を排する、という点に絞って統帥権の独立(統帥大権)をとらえた場合、それは、一概に不合理とは言えないのではないかと私が考えていることは、以前申し上げたところです。
 チャーチル英首相による日本の対英米開戦直前の東南アジアにおける英軍作戦計画への介入がどんな結果をもたらしたかを想起されれば、私の言わんとするところがお分かりいただけることでしょう。(太田)
3 終わりに
 
 「自分の此の地に<韓国統監として>来任せるは韓国を世界の文明国たらしめんと欲するが故なり」・・・<と宣言した>伊藤<の夢>・・・は、1909年・・・10月26日、ハルビンでの銃声とともに・・・葬られた」(16、343)わけですが、北朝鮮についてはともかくとして、かつての韓国ならぬ現在の韓国は、文字通り文明化し、(属国化した日本の停滞をしり目に、)自由民主主義の成熟度においては、報道の自由の面等、部分的に日本を凌駕するに至っており、また、経済面においても、失われた20年を空費した日本を急追しつつあります。
 そのような日本を見た伊藤はどんなに悲しみ、また、そのような韓国を見た伊藤はどんなに喜ぶことでしょうか。
(完)