太田述正コラム#4794(2011.6.7)
<映画評論22:300(その1)>(2011.8.28公開)
1 始めに
 若干時間的余裕ができてきたので、もともと、読者から評論をリクエストされていた映画を何本か借りようと思ってツタヤに出かけて行ったところ、当コラムでこれまで何度も言及してきた(コラム#867、2128、2411、2849、2851)ところの、ペルシャ帝国とギリシャ連合との間でのテルモピレー(=テルモピュライ=Thermopylae)の戦いを題材としていることから前から気になっていた『300』を見つけたので、ついでに借りてきて、まずこれから鑑賞した結果、評論を書く気になりました。
 これは、テルモピレーの戦いについての絵入り歴史小説を脚色したザック・スナイダー(Zack Snyder)監督によるワーナー・ブラザーズ配給の2007年の米映画です。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/300_(film)
 この映画に関しては、日本語ウィキペディアの中身が質量ともにあまりにも薄っぺら
http://ja.wikipedia.org/wiki/300_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
であり、極めて充実している英語ウィキペディア(前掲)と比較するまでもなく、極めて問題だと思います。
 この映画のストーリーだけでも、様々な観点から論じるに値する問題を含んでいるからです。
 ただし、日本語ウィキペディアについては、唯一、「イランの放送局IRIBの公式サイト内」からの「ハリウッド映画300 – アメリカと、イラン人の文明の歪曲」(日本語)
B:http://www2.irib.ir/worldservice/japaneseradio/300.htm
が外部リンクとして紹介されていた点は役に立ちました。
 ちゃんと日本語でイランの放送局(イラン政府と言っていいでしょう)がこういうものをアップしていることに感心する一方、その中で、「西側の、文明を遂げた勇敢な少数の兵士が、東側のイランの暴力的で野蛮な大軍に立ち向かう物語」と、「文明を遂げた」という誤った日本語が用いられていたことが惜しまれます。
 この放送局に日本人スタッフがいないのか、日本人スタッフがこの箇所を見落とした、ということなのでしょうね。
 蛇足ながら、この中でアケメネス朝ペルシャ王「クセルクセス」(紀元前486~465年)のことが「ハシャーヤール」と記されていたことにはとまどいました。(クセルクセスに関する日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B91%E4%B8%96
には「フシャヤールシャ」という表記も出てきますが、それとも微妙に違います。)
 映画では、「ゼルキス」(正確に表現できない)という英語読み
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Xerxes_I_of_Persia
で登場したので、その時にも違和感を覚えましたが・・。
2 この映画のストーリーへの批判をめぐって
 上記Bの『300』批判の主なものは以下の3点です。
 一、「歴史的な出来事は、ハリウッドの歪曲マシンにかけられ、西側の、文明を遂げた(ママ)勇敢な少数の兵士が、東側のイランの暴力的で野蛮な大軍に立ち向かう物語にすり替えられています。」
 二、「この中で、文化の侵略者たちは、当時のイラン人の生活様式や着ていた服についても、詳しく調査し、正しく伝えることを怠っています。映画300では、ハシャーヤール王が、ペルシャ帝国の王というより、インド・アフリカ系の人物であるかのように描かれているのです。」
 三、「ハリウッドは、アメリカ政府の代表として、イラン文明の真の姿を破壊し、アメリカの人々の反イラン感情を煽ろうとしています。」
 まず、二については、私自身も感じた点であって異論はありません。
 ミューヨークタイムスの映画評でも、色へのこだわり(color scheme)を批判し、筋が人種主義的色彩を帯びている、と批判されています。(A)
 次に、三については、米国政府がそんな影響力をハリウッドに及ぼし得るはずがないのであって、単にハリウッドが米国民の反イラン感情を踏まえた映画をつくったというだけのことであり、ためにする議論です。
 最後に一についてです。
 ナショナル・レビュー誌(National Revue)のコラムが指摘するように、古典ギリシャにおける後世人たるシモニデス(Simonides)(コラム#2128)、アイスキュロス(Aeschylus)(コラム#814、867、3451.特にペルシャに関し、そのうちのコラム#867参照)(注1)、そしてヘロドトス(Herodotus)(コラム#207、462、468、867、868、1010、1822、2106、2454、2461、2494、3455、3473、3512、3878。特にペルシャに関し、そのうちのコラム#867、868、2454、2461参照)は、テルモピレーの戦いを、ギリシャによる、その「自治的ポリスの自由な市民という観念」とは対蹠的なペルシャ「東方の中央集権主義(centralism)と集団的奴隷制(collective serfdom)」に抗する戦いと見た(A)のであって、咎めるとすれば、これら古典ギリシャ人を咎めるか、ペルシャ側の見方を記録にとどめなかった後世人たるペルシャ人の懈怠を咎めるべきなのであって、記録にとどめられている唯一の見方である古典ギリシャ人の見方をそのまま踏襲したからといって、米国ならぬこの映画制作者を咎めるのは筋違いでしょう。(注2)
 (注1)カリフォルニア大学アーヴァイン校のTouraj Daryaee教授は、アイスキュロスの、ペルシャ軍についての「怪物のような人間の群れ(monstrous human herd)」という文句やディオドロス(Diodorus)のギリシャ人の「自由を守るための勇気(valor)」という文句が、そのままこの映画の中で用いられていると指摘する。(A)
 なお、ディオドロス(Diodorus Siculus)は、シシリー島のアギリウム(Agyrium。現在のアギラ=Agira)生まれで紀元前60年から30年にかけて活躍したギリシャ人歴史家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Diodorus_Siculus
 (注2)監督のザック・スナイダーは、この映画は「事実(events)については90%方正確だ。いかれてるのはビジュアルな面だけだ…。私はこの映画を世界的な歴史学者達に見せたが、みんなすごいと言っている。かくも正確であることが信じられないというのだ」。と語った上で、この映画は「オペラであってドキュメンタリーじゃないが、そうだからこそ、人々は、これは歴史的に不正確だと言うのだ」と語っている。(A)
(続く)