太田述正コラム#4802(2011.6.11)
<映画評論22:300(その5)>(2011.9.1公開)
4 テルモピレーの戦いをめぐって
さて、ペルシャ戦争・・正確には第二次ペルシャ戦争・・の話ばかりして、その中の紀元前480年の8月か9月に行われたテルモピレーの戦いに即した話が出てこない、と言われないようにしなければいけませんね。
歴史の復習を兼ねてこの戦いを振り返ってみましょう。
レオニダス(Leonidas。~紀元前480年)には兄がいたのでもともとはスパルタの王位継承権者ではなく、そのため、王位継承権者たる男の子供以外のスパルタ市民の男の子供全員が受けなければならない前述の軍事を中心とした過酷な教育訓練を彼も受けました。
彼が紀元前481年にペルシャと戦うギリシャ連合軍の指揮官に選ばれたのは、スパルタの軍事力への期待からだけでなく、彼の軍事指導者としての能力が評価されたからでもあります。
(スパルタには本来もう一人王がいたはずですが、この時期はたまたま空位であったのかどうか等、私には分かりませんでした。)
どうしてわずか300人の手勢でレオニダスは戦いに臨んだのでしょうか。
映画『300』では、300人だけが何の荷物も持たずに、軽装で武装して歩いて戦場に向かいますが、いくらなんでも兵站を無視したそんな自殺行を彼らがするわけがないのであって、ヘロットの従卒達のほか、ペリオリコイの輜重兵も伴っていたと思われます。
とはいえ、市民兵がわずか300人にとどまったのは、ヘロドトスによれば、ちょうどその時、スパルタを含むドーリア人達の祝祭であるカルネイア(Carneia)の最中であったため、先遣隊を取りあえず派遣し、祝祭期間が終わったら、後続部隊を派遣して先遣隊に合流させる予定だったのです。
(映画では、ペルシャがスパルタのエフォルスを買収してレオニダスに出兵を禁じたため、「散歩」名目で出発せざるをえなくなり、「散歩」の警護の300人にとどめたとしています。)
ほかのポリスも出兵したのですが、これもちょうどオリンピック開催中であっため、やはり先遣隊を派遣したのでした。
ところが、予想よりも早くペルシャ軍との戦闘が始まってしまい、後続部隊は間に合いませんでした。
(なお、アテネは、その海軍が、並行して、この天然の要害であったテルモピレー地峡の近傍の海峡において、ペルシャ海軍とアルテミシウム(Artemisium)の戦いを戦っており、やはり一敗地にまみれています。
(A及び下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Salamis )
その結果、テルモピレーにおいて、地峡なので大軍の利が減殺されるとはいえ、ギリシャ連合軍の4,000から7,000人の兵力に対し、クセルクセス自らが率いる大軍・・ヘロドトスは200万人を超えていたとするが、現在では、50,000人から200,000人であったと見られている・・という、極端な多勢に無勢がぶつかり合うことになったのです。
クセルクセスは、4日間攻撃を控え、その間にギリシャ軍が退散することを期待したのですが、退散しないので、5日目に攻撃を開始したところ、6日目にかけての戦闘で、ギリシャ軍は、自らは約2,500人の戦死にとどまったのに対し、ペルシャ軍を約20,000人を戦死させるというという大戦果をあげます。
映画でも出てきますが、ペルシャ軍のエリート部隊の「不死身隊(the Immortals)」もはじき返され、クセルクセスの弟2人も戦死するのです。
しかし、7日目にギリシャ人・・映画ではスパルタ人としているが実際は他のポリスの人間・・の裏切り者が、この地峡の背後に通じる抜け道をペルシャ軍を先導したため、ギリシャ軍は挟撃態勢をとられてしまいます。
そこで、レオニダスはスパルタ人以外のギリシャ軍に撤退を促すのですが、300人のスパルタ市民兵と900人のヘロットの従卒に加えて、撤退を拒否したテスピア(Thespiae=テスピアイ)(注11)兵のほか、人質としてとどめ置かれたテーベ(Thebe=テーバイ)(注12)兵400人は残り、結局、彼らはペルシャ軍に全滅させられてしまうのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Leonidas_I
(注11)スパルタ近傍のポリス。クセルクセスに抗したために、彼によって焼打ちされた。それでも、翌年のプラタイアの戦い(後出)においても残滓兵がギリシャ連合軍に加わって戦った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thespiae
http://ejje.weblio.jp/content/Thespiae
(注12)アテネの比較的近傍の有力ポリス。ギリシャを裏切りクセルクセスに与した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thebes,_Greece
http://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%99
スパルタのクレオメネス(Cleomenes)王の娘であってレオニダスの王妃となったゴルゴ(Gorgo)は、スパルタ史の中で最も有名な女性です。
ヘロドトスによれば、彼女は、父親に賄賂を受け取らないように助言したとされています。
また、ペルシャがギリシャに侵攻しようとしているとの情報の解読にスパルタの将軍達をしり目に彼女が成功したとされています。
更に、プルタルコス(Plutarch=プルターク)(注13)は、その『倫理論集(Moralia)』の中で、ゴルゴが、アッティカ(Attica)(注14)の女性達から、どうしてスパルタの女性はほかの世界で唯一、男性を支配することができるのかと問われ、「我々は男性達の母親である唯一の女性達だからだ」と答えたという話を記しています。
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Sparta
(注13)46年頃~120年頃。デルフィ(Delphi)の近くの町で生まれ、ローマ市民となったギリシャ人たる歴史家・伝記作家・随筆家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plutarch
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9
(注14)アテネが所在する地方。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB
映画では、レオニダスの出征後に開かれた枢密院で、ゴルゴが男性たるメンバー達に対してこの言を吐き、やり込める場面が出てきます。
この映画は、テルモピレーの戦いの翌年の紀元前479年に行われ、ギリシャ連合軍が(クセルクセスが引き揚げた後、その部下のマルドニウス(Mardonius)が率いていた)ペルシャ軍に大勝利を博したプラタイア(Plataea=プラタイアイ)の戦い(注15)の場面で終わります。
(注15)紀元前480年9月に行われたところの、サラミスの海戦において、アテネ海軍がペルシャ側の海軍に対して起死回生の大勝利を挙げた
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Salamis 前掲
後、翌年8月、スパルタ、アテネ、コリント(Corinth)、メガラ(Megara)等からなるギリシャ連合軍がペルシャ軍を殲滅し、爾後ペルシャ戦争はギリシャ側の攻勢のうちに推移することになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Plataea
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
なお、マラソンの起源として有名なマラトン(Marathon)の戦いは、第一次ペルシャ戦争において、紀元前490年に、アテネを中心とするギリシャ連合軍が、クセルクセスの父親のダリウス(Darius)王が派遣したペルシャ軍を打ち破った戦いだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Marathon
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3
歴史って本当に面白いですね。
(完)
映画評論22:300(その5)
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