太田述正コラム#4965(2011.9.1)
<皆さんとディスカッション(続x1311)>
<太田>(ツイッターより)
(コラム#4963に関し)もちろん、一般住民の大量殺害を伴う、というより、それを目的としたところの、東京等への戦略爆撃並びで原爆投下も戦争犯罪だ。
ただ、原爆の場合は、もう一回り悪質な戦争犯罪だ、という趣旨だからね。
<ΗΖΖΗ>(「たった一人の反乱」より)
<ΗΖΗΖクン(コラム#4963)、>権利関係では福島中央テレビが正しいんだろうが、実際の原発災害に関する報道は、これで正しいんじゃないの?
素材改変らしいが、どの部分が改変で何か虚偽が含まれているんだろうか?
日本政府が福島を始め被曝者を見殺しにしているのは間違いないと思うんだが。
著作権の話は現状大して意味がないよ
<ΗΖΗΖ>
>素材改変らしいが、どの部分が改変で何か虚偽が含まれているんだろうか?
0:15~0:18だね。(福島中央テレビの映像分を切ってなかったみたいだね。)
http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo
http://togetter.com/li/181612
中の「fct_staff 福島中央テレビ スタッフ情報」によると、福島原発が爆発した無音動画に音を足して素材改編したそうだよ。
>実際の原発災害に関する報道は、これで正しいんじゃないの?
そういうことなら、<ΗΗΖΖクン(コラム#4963)が最初からΗΖΖΗクンみたいに>書けば、<コラム#4963>で違うレスをしたかも。
福島の農家の大沢さんの農作物は「「検査の必要はない」と断られた(1:15)」そうだが、人も機械も足りないってことでしょう。
「群馬県が所有する検査機器だけでは間に合わないため、多くは民間に委託され、検査機関はフル稼働で対応している。・・・
同社の社員は40人。そのうち技術者計10人に派遣社員1人を加えた11人が、1日3交代で24時間態勢で検査を行っている。・・・
県が行う検査も、堆肥のほか、農水産物や牛肉、汚泥など多岐にわたる。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/surprise/20110831-OYT8T00383.htm
限られたリソースでどこまで測れるかという問題もあるし。
「野菜やキノコ類、果物などを市場から買い上げて検査。魚など海産物についても、北海道沖から和歌山県沖までを対象に検査する。」
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E0E6E2E3E78DE0E6E2EAE0E2E3E39180E2E2E2E2;at=ALL
あと、京大の今中さんに↓と言われるバズビー氏(7:14)が出てくるわ、
「ECRRのリスク評価は、「ミソもクソも一緒」になっていて付き合いきれない.」
「ECRRに安易に乗っかると、なんでもかんでも「よく分からない内部被曝が原因」となってしまう.」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No99/imanaka041215m.pdf
「放射線の正しい測り方」をしていない(7:04)わで、
http://p.booklog.jp/book/30823
ドイツの公共放送のレベルって低いんだなあ、という感想です。(日本では、NHK>テレ東>その他、という感じでしょ。)
まあ、遠い日本の話だから、好意的に見たとしても、このへんがドイツの限界かもしれん。
<豊丘時竹>(2011.8.29)http://d.hatena.ne.jp/toyotoki11/20110829
■小沢一郎の負け
やはり田中角栄にはなれないようだ。
前原、野田のどちらが2位になるかだけ注目だと太田述正メールでチロッと読んだように思う。
後刻確かめてみたいが、太田氏の洞察力は相変わらずすばらしい。・・・
<太田>
コラム#4957ですね。
<べじたん>
≫また、べじたんさん、「そういった趣旨のことを書いたことはあったのではないかと思いますが、aとbを一まとめにして書いたことはないのでは?」という認識で間違いありませんか?≪(コラム#4963。太田)
「シベリア出兵」「ロシア革命と日本」シリーズが、帝国陸(海)軍≧英国>外務省>米国でしょうか。
帝国陸軍>帝国海軍>外務省の代表的コラムはどれがいいんでしょうね。
反日を親ソと読み替えれば、一まとめに近いかな。↓
—————
13 ジョン・チャップマン「戦略的情報活動と日英関係–1918~1945年」
「1918年・・・<、英国は、>日本<に>シベリア・・・出兵<を>要請<した。>・・・日本陸軍の上級指揮官たちの多くが、ロシア、とりわけ共産主義という急進的体制との戦争を歓迎したが、<日本>海軍は1907年以来拡大してきたロシアとの通商上の利益を損なうような行動を米国から求められたことに反発した。・・・<もっとも、>結果的に英国とフランスは日本の出兵を歓迎したが米国は歓迎しなかった。」(170~171)
→こんなことからも、帝国海軍が、赤露の脅威について、最初から極めて鈍感であったことが分かります。(太田)
「英国は日本を仮想敵国としていたが、日本海軍の無線通信の傍受と分析は行っていなかったようである。これに対し米海軍は、中国とグアムそしてフィリピンのカヴィテの3カ所に傍受基地を設けている。さらに、1921年にはニューヨークの日本総領事館に侵入し<て>・・・海軍暗号表の写真撮影<すること>に成功している。一方、オーストラリア<は、>第一世界大戦中のある時点から、太平洋諸島から本土に向けて発信されていた日本の有線および無線通信<を>傍受・・・<し始め>ていた・・・。」(172)
→当時、反日の程度が、米国>豪州>英海軍>英陸軍、の順であったことがここからもよく分かります。(太田)
http://blog.ohtan.net/archives/52078964.html
≫<1920年代半ば、>世界の列強の中で、(米国は赤露に大甘であったとこ ろ、)英国は最も赤露に警戒心を抱いていたのに対し、日本の警戒心は米国と は比較にならないほど強かったものの、英国ほどではありませんでした。≪(コ ラム#4962(未公開)。太田)
≫ロシアにおける共産革命を、世界の列強の中で、最も深刻に受け止めたのが日本だったということです。≪(コラム#3770。太田)
—————————
ロシア革命(1917)とシベリア出兵(1918~1922)が赤露警戒心の転換期(英≧日から日≧英)、というのが太田さんの主張だったんではなかったでしたっけ?
・・・
正確には、英≧日から帝国陸軍≧英、ですかね。
英≧日から帝国陸軍≧英≧日(≒日本国民)、としてもいいですか?
コラム#4962は、(帝国陸軍≧)英≧日(≒日本国民)、ということでしょうか?
日本の警戒心(コラム#4962)の「日本」の定義が必要そうですね。
<太田>(ツイッターより)
「ディスカッション」上で突然起こった赤露論争。
ここはひとつ、戦間期の英国を揺るがした偽ジノヴィエフ書簡の話をせにゃなるまいて。
ところで、1988年に英国防大学留学中、英共産党幹部が同校に招かれ、有志学生との議論が行われた。
我々の嘲り混じりの厳しい質問に、彼女、必死に答えていたな。
<太田>
ジノヴィエフ書簡の話ってのは以下の通りだ。
1923年12月6日の総選挙で労働党は過半数の議席をとれなかったが、保守党、自由党の議席数を上回る第一党となり、党首のマクドナルドは少数内閣を組織した。
この英国史上初の労働党内閣は、翌1924年2月1日、ソ連を承認(国交樹立)し、8月、英ソ通商協定に調印したが、野党第一党の保守党はこの協定の批准を拒み続けた。
また、労働党内閣は、ワーカーズ・ウィークリー誌の共産主義者たる編集者が英軍兵士達に来るべき革命の準備に加わるよう呼びかける公開状を公刊したことに対し、検察当局が1797年反逆法(Mutiny Act)違反として起訴したのを取り下げさせた。
これに反発した保守党によって、同年10月8日、下院で内閣不信任決議が可決され、マクドナルド首相は下院を解散し、改めて総選挙が10月29日に行われることになった。
ところが、投票日の数日前、保守的なデイリー・メール紙に、英国共産党に革命を扇動した内容の、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev)コミンテルン執行委員長(Executive Committee of the Communist International (Comintern) )が英国共産党中央委員会宛てに出した書簡が掲載され、(それがなくても敗北必至であった)労働党は地滑り的敗北を喫し、保守党内閣が成立し、英ソ関係は悪化し、1927年には国交断絶に至った。
両国が国交を回復したのは1929年。
1967年にこの書簡が偽造であったとする論文が出、1999年に英外務省が公式に偽造であったとする調査結果を公表した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Russia_%E2%80%93_United_Kingdom_relations
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_Kingdom_general_elections
http://en.wikipedia.org/wiki/Zinoviev_letter
他方、日本は、1925年1月20日に日ソ基本条約を締結し、ソ連を承認(国交樹立)している。
ということは、そのかなり前から日本国内でソ連との融和ムードが高まっていたことを意味する。
以上から、1924年からの5年間ほどは、英ソ関係は、日ソ関係よりも悪かったことがはっきりしている。
すなわち、支那の上海での1925年の五・三0事件の頃の英国の反赤露度は、対ソ不信感に加えて労働党への疑いを過半の英国人が抱くに至っていて、日本の反赤露度を上回っていた、と言えそうだ。
さてと、TAさんが言いだしっぺのわれらが赤露論争については、結論を急がずに、引き続きみんなで考えて行きましょう。
<XXXX>
<新たにお送りした>資料(サー・ヒュー・コータッツィ編著 『歴代の駐日英国大使1859‐1972』 文眞堂 2007年)は、これまで駐日大使として論じられる事がなかったところの「サー・ジョン・ティリー1926-31年」、「サー・フランシス・リンドリー1931-34年」、「サー・ロバート・クライブ1934-37年」の人物像を明らかにするモノです。
(ただし、「サー・ジョン・ティリー1926-31年」は既にお送りした後藤春美の著書に”ほぼ同じ”論文が収録されています。)
内容に少し触れますと、サー・フランシス・リンドリーは赤露に対し強い猜疑心を持った人物であり、彼は赤露に対処する事が「英国の主要な世界的問題であると判断」し、満州事変が起きると必然的に日本を擁護する議論を積極的に本国に対し行って居たように思います。(pp256-257)
おそらく彼は、日本の行動が赤露に対する安全保障に動機付けられたモノであると察し、引くことの出来ない日本を無理解に批判する事は抜き差しならない状況を生じさせ、日英関係を致命的な状況に追い込むと確信していたのだろうと思います。そして、だからこそ、彼は「私の唯一の目的は連盟がこの馬鹿げた満州の騒ぎを、世界戦争へ導く邪魔をすることである。」と喝破するのだと思います。(pp258-259)
しかし、結局、リンドリーの意見は本省に取り入れられはしなかったのであって、彼は「政治的な慎重性と常識、特に英国の利益にたいする配慮が要求されるこの事件の特異性」を本国に知らしめる事が出来なかったと後悔し、悔恨の情にかられつつ外交官を引退する事を決意するのであります。(pp260-262)
「私は、我が国政府を連盟の確固たる不変の原則に従って、事態を成り行きに任せるという危険を冒すように説得する失敗をしたあとで、私自身を大いに責めている。今や実現性は分からないが、切迫した危険に直面していると思う。それは私が派遣されている国との悲惨な、しかし回避し得る衝突を阻止しなかったという重大な失敗に基づく危険である。」
他方、サー・ロバート・クライブはエリオットやリンドリー、又は後任のクレイギーとは違って、「在任中にロンドンの本省や北京駐在の同僚大使と意見を戦わすということをあまりしなかった」(p271)のであり、また彼は同時期の英国政府と同様の謬見を抱き、日英間に横たわる問題は経済的なモノであると思い込み、「1935年、<英>陸軍省<が>日英関係改善のために<派遣を決め、1936年の夏に着任した>ピゴット少将」と意見を衝突させ、ピゴットを「政策の根幹において意見を異にする人物であり、厄介である」と評したのであります。(pp273-277)
彼の後任であるクレイギー大使が1937年に着任した時、既に支那事変が始まっていた事を考えれば、クライブ大使が過ごした任期というのは、基本的に日英関係を改善する最後の機会だったのではないでしょうか。
ちなみに、『対ソ情報戦資料』は面白い資料ですが当時の手書き資料がそのまま印刷されているので、それを更にコピーして劣化させたら読めそうもないので、あらかじめ特に重要そうな資料をテキスト化して、該当箇所のコピーと共にお送りしようと考えています。
追伸:9月1日~9月9日まで、<留守にする>ので、もし資料の欠けなどがありましたら、9月10日以降の対応になってしまいますので、よろしくお願いします。
<太田>
『歴代の駐日英国大使1859‐1972』の抜き刷り、届きました。
では、この流れで、日本の戦前史がらみの記事の紹介から。
引き続き、池上・加藤対談にツッコミを入れさせてもらいましょう。↓
「池上:ノモンハン事件の辻正信や、インパール作戦の牟田口廉也といった歴史的に振り返るととてつもない失敗を犯した人たちも、出世していますね。
→「とてつもない失敗を犯した」という認識は誤り。(太田)
加藤:失敗を検証しないこと、現場がウソをつくこと、ウソをついて勲章を求めたり、出世を望んだりすること。これが現場はもちろんトップマネジメントまで共通していたといえますね。軍というのは、戦前期においては、巨大な官僚組織であり、組織の善悪を見るには格好の素材だと思います。
池上:そのまま、現代日本にあてはまる部分がたくさんありますね。そして今回の原発事故に至る過程においても。・・・
加藤:中国戦線で大隊長までやった後、歴史家になった方に一橋大学教授だった藤原彰さんという方がいて、すでに亡くなられましたが、彼の『餓死した英霊たち』(青木書店)を読みますと、もう目の前が暗くなる程に、日本軍の愚かさをえぐっています。補給の軽視、兵站の無視、輜重兵への差別、経理部門や医療部門への差別、現地調査の軽視など、読んでいて暗澹たる気持ちになります。・・・
→やはり、日本的「組織の善悪」中、悪の方だけを見ている感が否めない。(太田)
加藤:・・・井上蔵相や幣原外相が進める協調外交が国益を損ねるという海軍の艦隊派の主張は、とうてい説得力がありませんでした。・・・
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110811/222056/
→海軍の艦隊派の主張もトホホだったが、いわゆる幣原外交の罪はもっと重い。(太田)
池上:特攻という戦術そのものが、パイロットという貴重な「資産」をコスト=消耗品とみなした、愚かな作戦だったというわけですね。・・・
加藤:なぜ、軍が、こういった若い少年兵たちを、大切な資産と考えられなかったかといえば、それは結局、戦時中の日本が、真の意味で、議会で民意を決するといった、民主主義国家ではなかったからです。・・・」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110824/222247/?top_fcs
→戦時中の日本が民主主義国家ではなかったというのは間違い。それ以外の部分は必ずしも間違いとは言えないが、当時の日米の圧倒的国力差を考えれば、間違いに近い。(太田)
それでは、その他の記事の紹介です。
仮に適切な計算結果だとしても、研究所が研究所だけに、誰も信用しないだろう。↓
「賠償加算しても、原子力は火力より安い・・・経済産業省所管の財団法人・日本エネルギー経済研究所・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110831-OYT1T00876.htm
陶磁器の研究はともかく、緑化については、彼の功績というより、朝鮮総督府の功績だろう。↓
「・・・朝鮮総督府農商工務部山林課の職員・・・浅川巧(1891‐1931)・・・は朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命だと思っていた。全国を巡り木の種類を選び、植樹を続けた。また、自然な状態の土の力を生かす「露天埋蔵発芽促進法」でチョウセンゴヨウマツ(朝鮮五葉松)の種子を芽吹かせる方法を開発した。・・・死後<、>朝鮮陶磁器の研究書『朝鮮陶磁名考』が出版された。・・・」
http://www.chosunonline.com/news/20110831000059
http://www.chosunonline.com/news/20110831000060
ロンドン留学中にせっせと買い物に行っていたTescoが日本に進出してたって迂闊にも気づかなかったな。撤退しちゃうのね。↓
・・・After ploughing more than £250m and eight years into trying to crack one of the toughest retail markets in the world, Tesco・・・the world’s third-largest retailer・・・has admitted defeat and announced that it is pulling out of Japan.・・・
Boots the Chemists and France’s Carrefour have also admitted defeat there.・・・
http://www.guardian.co.uk/business/2011/aug/31/tesco-japan-pull-out-philip-clarke
・・・Tesco operates 129 stores in Japan (small formats)・・・
Wal-Mart is also finding, having had a presence in Japan since 2002 through Seiyu (now a wholly owned subsidiary).・・・
http://www.guardian.co.uk/business/2011/aug/31/tesco-exits-japan-analysts
イタリア最後の国王(在位34日間)の王妃の皇太子妃当時、ムッソリーニとできちゃってたんだって。それにしてもムッソリーニ、連夜、とっかえひっかえした相手といたしてたらしいね。↓
<この皇太子妃、ベルギー国王の娘だった。↓>
・・・The daughter of the Belgian king, Albert I, Marie-Jose was born in 1906. While still a child, it was decided that she should marry into the Italian royal family and in 1930 she wed Umberto of Savoy, the only son of King Victor Emmanuel.
<彼女、戦後ご主人と離婚。↓>
By her own subsequent account, the marriage was not a happy one, and she separated from her husband after the Italian monarchy was abolished by referendum in 1946. She lived for most of the rest of her life in Switzerland where she died in 2001.・・・
<ご主人が即位してすぐ王制は廃止された。↓>
Though discredited by his support for Mussolini, King Victor Emmanuel clung on to his throne after the dictator’s fall, only abdicating in favour of Umberto in May 1946. Umberto ruled for only 34 days, earning for himself the sobriquet “the May King”.・・・
<この皇太子妃、嫁ぎ先のサヴォイ王家と違ってファシズムにいかれちゃあいなかった。↓>
In contrast to the Savoy family, Marie-Jose had little time for fascism and during the Second World War made a failed attempt to broker a peace treaty with the United States.
<だけど、彼女、ムッソリーニにはいかれちゃったんだね。権力は媚薬なのだ。↓>
But she did, it would seem, have time for Mussolini. It has long been known that the Italian dictator was compulsively promiscuous: by one account, he had sex with at least one woman a day at his office in Palazzo Venezia for almost 14 years until the collapse of his regime in 1943.・・・
<このほど「発見」されたところの、ムッソリーニの息子の手紙で、明らかになった。↓>
In a letter reproduced by the weekly magazine Oggi, Mussolini’s son Romano quotes his mother as saying that there was a “brief period of intimate romantic relations between my father and the then princess of Piedmont”.・・・
http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/31/mussolini-queen-marie-jose-affair
歴史を変えた10人の情婦ってんだけど、知らない人が多いなあ。↓
http://www.slate.com/id/2302824/
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太田述正コラム#4966(2011.9.1)
<戦間期日英関係の軌跡(その8)>
→非公開
皆さんとディスカッション(続x1311)
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