太田述正コラム#0034(2002.5.15)
<米国憲法修正第二条>

 日本では殆ど報道されていませんが、今米英では、米国憲法修正第二条の解釈をめぐって議論がまきあがっています。
 ことの発端は米国のアシュクロフト司法長官が、5月6日、最高裁で係争中の裁判に関し、行政府の修正第二条解釈を積極的に法廷に提出したことです。
http://www.guardian.co.uk/usguns/Story/0,2763,712197,00.html
 修正第二条は、「よく統制のとれた民兵は、自由な州の安全のために必要である。人民の武器を保有し、携行する権利は決して損なわれることはない」という条文です。
 この条文の解釈には二つの対立する説があります。一つは集団的権利説であり、前節が後節を従属させるとし、この条文は昔でいう民兵、現在の州兵(National Guard)や州警察の武装権を認めたものであるとするのに対し、もう一つは個別的権利説であり、後節こそ中心であり、民兵とは全ての健全な市民を意味すると主張します。
http://www.slate.lycos.com/?id=1007957。ガブリエル中森「武装する世界 日本の選択、「戦争の世紀」から「平和の世紀」へ」毎日新聞社1999年3月 217-218頁)

 最新の統計が得られる1999年だけで28,874人もの米国人が銃器で命を落とした(http://www.nytimes.com/2002/05/09/opinion/09HERB.html)として銃規制の一層の強化を唱える人々は集団的権利説をよりどころにしていますし、悪名高い全米ライフル協会(上院議員であった当時のアシュクロフト氏の有力献金団体でもありました。
http://www.nytimes.com/2002/05/09/opinion/09HERB.html)また、氏は同協会の終身会員です(Guardian 前掲)。)は個別的権利説をよりどころにしていることは、容易に想像できるでしょう。
 判例は、最高裁のものとしては、1939年の一つしかありません。この判例は、必ずしも明確ではないものの、集団的権利説をとったと解されています。行政府もまた、同様の解釈をとってきました。
 他方、圧倒的多数の世論は個別的権利説を信奉したまま現在に至っています。

 今回、最高裁に提出された解釈は、個別的権利説に立脚しており、今後共和党が議会で多数を占めれば、これまでのささやかな銃規制諸法すら廃止するのではないか、更に、ブッシュ大統領が今後次々に同じ考え方の判事を任命して最高裁に送り込んで行けば、将来、判例そのものがくつがえる可能性があるのではないかととりざたされています。
http://www.guardian.co.uk/usguns/Story/0,2763,715203,00.html

 上記二説を、単純にリベラル派と保守派をそれぞれ代表するものと解することはできません。
というのは、個別的権利説を唱える論者がしばしば援用するのですが、建国(独立)から日も浅い1791年(憲法制定から4年後)に修正第二条が導入されたのは、州によっては黒人やカトリック教徒が銃器を持てないこととされていた状況を打破し、人種的、宗教的差別等を撤廃するためであったという説もあるからです。(中森 前掲206、218-221頁)
 (ただし、全く正反対の説、しかも最近の有力説もあります。バージニア州の白人たちが、黒人の反乱を恐れ、白人だけの民兵組織に連邦政府が手を出せないようにするため、この条文を導入させたというものです。(Guardian 前掲))

 私自身は今のところ、米国のリベラル派の学者の大方の意見と同じく、この条文が、(建国当時の米国市民の多くが共通に抱いていたところの、)職業的軍隊に対する不信感の下で市民全員が民兵として武装してその安全を確保しようとする観念、に根ざしたものであると考えています。(拙著「防衛庁再生宣言」(日本評論社2001円7月5日)155-157、198-199頁参照)従って、集団的権利説に親近感を覚えます。
 
 またまた苦言を言いたくもありませんが、日本の憲法学者は、米国の学説を追って紹介することを研究だと思っている人が多いものの、この米国憲法修正第二条について、全くと言って良いほど沈黙を保っているのはどうしてなのでしょうか。この条文は、憲法第九条を考えるときにも、重要な手がかりを与えてくれる可能性があります。彼らの今後の真剣な研究に期待したいと思います。