太田述正コラム#4842(2011.7.1)
<ナチの逃走(その1)>(2011.9.21公開)
1 始めに
 ジェラルド・ステインナッチャー(Gerald Steinacher)の新著、 ‘Nazis on the Run: How Hitler’s Henchmen Fled Justice’ の序文が公開されており、まことに興味深いので、その抜粋を翻訳してお目にかけましょう。
2 ナチの逃走
 「・・・フレデリック・フォーサイス(Frederick Forsyth)<(注1)>は、1972年の小説、『オデッサ・ファイル(The Odessa File)』<(注2)>で、秘密の「オデッサ組織」をつくった元SS員達の固く結ばれた一団について物語った。・・・
 (注1)1938年~。イギリスの犯罪小説やスリラーの著述家・時折の政治評論家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Forsyth
 (注2)1972出版のスリラー。SSの強制収容所所長がどこにいるのかを突き止めようとする若いドイツ人レポーターを主人公とする。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Odessa_File
 冷戦の不信の機運がまことにもって恐るべき物語を出現させた。
 それは、現在でもなおストラスブールに存在する、赤い家(Maison Rouge)というホテルを舞台にできて行った。
 ベストセラーや大衆紙は、ずっと、1944年8月10日にそこで開かれた秘密会合・・第三帝国の経済指導者達がSSと一緒にナチズムの後生の方向性について謀議した・・という、魅惑的な話を援用し続けている。
 その出席者達が「世界史上、最大の逃亡者組織の資金として」何十億ものマルク金貨を安全に外国へ移転する計画を練った、ということが、サイモン・ウィーゼンタール(Simon Wiesenthal)<(注3)(コラム#3078、3818)>といった権威を含む多くの人々によって信じられてきた。
 (注3)1908~2005年。オーストリアにおけるホロコースト生存者でナチ狩りで有名。
http://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Wiesenthal
 ウィーゼンタールは、自信ありげに、この会合の出席者達には、そのすべてが強制収容所における強制労働に使用と関わりがあるところの、石油男爵のエミル・キルドルフ(Emil Kirdorf)<(注4)>と鉄鋼の大立者であるフリッツ・ティッセン(Fritz Thyssen)<(注5)>とグスタフ・クルップ(Gustav Krupp)<(注6)>が含まれている、と言明した。
 (注4)1847~1938年。ルール地方の産業家。1920年代におけるナチスへの支援に対し、1937年にナチスドイツの最高勲章を授与される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Emil_Kirdorf
 (注5)1873~1951年。当初はナチスに協力的だったが、1934年にSA弾圧をヒットラーに進言し、このこともあって、実際弾圧が行われたところ、ヒットラーによるユダヤ人弾圧が行き過ぎであると考え、また、カトリック教会弾圧にも反対して、1939年にドイツ国外に亡命したが後に捕えられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Thyssen
 (注6)Gustav Georg Friedrich Maria Krupp von Bohlen und Halbach。1870~1950年。彼は、クルップ財閥に男子たる後継がいないことを心配した皇帝ヴィルヘルム2世の斡旋で同財閥の嫡女と結婚し、クルップ姓を名乗った。ドイツ重工業、つまりは軍需産業の主のような人物。戦後ニュルンベルグ裁判の被告となったが、健康上の理由と高齢のため解放される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Krupp_von_Bohlen_und_Halbach
 しかし、今日に至るまで、この、第四帝国の出現を計画する高レベルの会合、という信じられないような話を裏付ける一片の証拠も出てきていない。
 実際、キルドルフは既に1938年に亡くなっていたし、クルップは1943年に自分の地位を捨てていたし、ティッセンは、当時、ザッハゼンハウゼン(Sachsenhausen)の収容所に投獄されていた。・・・
 連合国によるイタリアの軍事占領は1945年12月に終了したばかりであり、それより前に、逃亡者達がイタリアから出国ことは容易ではなかった。
 しかし、この本で明かしたところの、<私自身による>調査によれば、イタリアを経由した逃亡ルートは1946年に機能し始め、欧州から逃亡した過半のナチはイタリアの港を経由して外国への旅に出た。
 逃亡者達を助けた人々のうちで特記すべきは、ドイツ語圏のアルト・アディゲ(Alto Adige=南ティロル=South Tyrol)<(注7)>の人々だった。
 (注7)第一次世界大戦中にイタリアがティロル地方南部を占領し、1919年のサンジェルマン(Saint-Germain)条約でオーストリア・ハンガリー帝国からイタリアに割譲された。
 アルト・アディゲはフランス語のオート・アデイジュ(Haut(高い)-Adige(アディジュ川流域))から来ており、ナポレオンがオーストリア帝国からティロル地方南部を奪ってイタリアに編入し、そのイタリアを1805年から1814年まで統治したことに由来する。この呼称が、第一次世界大戦中にイタリアによって復活させられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/South_Tyrol
 この地域は、ベニート・ムッソリーニの下で激しいイタリア化の対象とされた。
 ドイツ語を使ったりティロル文化に言及することがしばしば禁じられた中で、地域の人々は、ヒットラーがムッソリーニに敵対してまでその大義を守ろうとはしなかったというのに、ドイツの民族的ナショナリズムと強固な紐帯を維持し続けた。
 1945年末の時点では、南ディロルは、連合国の軍事政府の統制下から解放された、逃亡ルートに位置するところの、最初のドイツ語圏でもあった。
 この本は、かかる一連の諸条件が、いかに、都合よくも南ティロル地域に位置した逃亡昇降口(Nazi-Schlupfl och)の出現を促進したかを浮き彫りにする。
 ドイツないし東欧からイタリアへと逃げた元のナチ党員達とSS将校達は、その中間に横たわるオーストリア地域を横切った。
 厳重に警邏されていた、ロッテルダムやハンブルグといった港といった北方の出入り口から旅に出るよりも、伝統的な密輸ルートであるブレンナー峠(Brenner Pass)を通った方がはるかにリスクが小さかった。
 密輸業者の幾ばくかにとっては、荷は何でもよかった。
 南米が目的地であったドイツ人の移民達に加えて、彼らの顧客には、しばしばパレスティナに住みつくために欧州から違法に逃亡するユダヤ人達も含まれていた。
 つまり、おぞましいことだが、逃亡者たるナチ犯罪者達のアルプスを越える逃亡の路は、彼らの犠牲者達のそれと重なり合っていたわけだ。
 そして、南ティロルは、彼らの逃亡を達成するための、ドイツ、イタリア、スペイン、そしてアルゼンティンの間のコネを再統合し固める、SSとビジネス界のメンバー達のごく自然なハブになったのだ。
 この地域で、逃亡者達は大歓待を受けたので、その幾ばくかは、農場で働いたり移住ビザと船賃のための資金を調達するために借りた金でもって、何か月いや何年もそこに留まることを選んだ者もあった。
 南ティロルにおける支援ネットワークは、明らかに良く組織されており、逃亡している戦争犯罪人達とSS将校達に必須のもの、例えば新しい偽名の身分証明書を提供した。
(続く)