太田述正コラム#4846(2011.7.3)
<ナチの逃走(その3)>(2011.9.23公開)
この本は、国際赤十字とイタリア内の難民のための法王庁の救援諸機関との間の緊密な協力を記載している。
ナチの時代の間の法王庁と法王ピオ12世(Pius XII)<(注11)(コラム#2026、3935)>の姿勢、とりわけ、ホロコーストの話が露見してきた時点でのこの法王の沈黙は、絶え間ない歴史的論議の的になってきた。
(注11)Eugenio Maria Giuseppe Giovanni Pacelli としてローマに生まれる。1876~1958年。法王:1939~58年。70万人から86万人のユダヤ人を救ったとされる。反共主義者としても知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII
今から振り返ってみると、国際赤十字のケース同様、法王庁の道徳的規準と現実政治(realpolitik)との間の抵触(conflict)は明白だった。
カトリック教会の指導者達の多くは、時々は知っていて、そしてそれ以外では知らず知らずに、大規模なナチの<人間>密輸に関与した。
僧侶達の主要な動機は「神無き共産主義」と戦う必要性だった。
米国内の司教達と法王庁との間の書簡のやりとりからうかがえるのは、遍く存在したところの、共産主義者達によるイタリア乗っ取りへの恐れであったところ、それは、一部、戦後の西欧諸国の中で最も強力な共産党を擁していたのがイタリアであったという事実に立脚していた。
この政治的文脈の中で特に興味深いのは、法王庁の法王難民救援委員会(Pontifical Assistance Commission for Refugees)の役割だ。
これは、(後にパウロ6世(Paul VI)<(注12)>となる)副国務長官(Under-Secretary of State)のジョヴァンニ・モンティニ(Giovanni Montini)の管轄下の重要な慈善組織だった。
(注12)Giovanni Battista Enrico Antonio Maria Montini としてイタリアのロンバルディアの片田舎に生まれる。1897~1978年。法王:1963~78年。第二ヴァチカン会議を開催。正教、英国教、プロテスタントとの会計を改善した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Paul_VI
(米国のカトリック教会によって資金が支えられていた)この委員会は、当時の米国務省の公式文書で、冷戦初期における共産主義に対する全般戦略の中心的存在とされていた。
証拠が示唆するところによれば、法王庁の何人かは、この組織をソ連の欧州における影響力増大という共通の敵に対する戦いの道具として用いた。
この過程における一人の主要な役者が、ローマのサンタ・マリア・デル・アニマ(Santa Maria dell’Anima)単科大学学長(で確信的ナショナリストでアドルフ・ヒットラー尊敬者たる)のアロイス・フーダル(Alois Hudal)<(注13)>だった。
(注13)1885~1963年。オーストリア・ハンガリーのグラーツ(Graz。現在のオーストリアでウィーンに次ぐ第二の大都市)に生まれる。汎ドイツ・ナショナリスト。反共主義者にして反自由主義者。親ナチだったが、ナチの反キリスト教、就中反カトリシズムと人種主義には反対した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alois_Hudal
http://en.wikipedia.org/wiki/Graz
1933年から司教で法王の補佐官であったフーダルは、何年にもわたって法王ピオ12世と緊密な個人的紐帯を享受した。
彼の法王庁並びにカトリック教会の階統制の中での影響力は1943年以降衰えたけれど、彼は、依然、ナチ救援計画について法王の格別なる祝福を得ることができた。
フーダルは、後年、法王庁のために生贄の山羊になったけれど、彼が法王庁にいた時にやったこと・・法王庁のクロアチア人、スロヴェニア人、ウクライナ人、そしてハンガリー人のためのそれぞれの難民委員会を、元ファシスト達とナチの共犯者達がこれら諸国から逃亡するのを助けるという類似のやり方で活動させた・・は決して逸脱(exception)ではなかった。
カトリック教会は、出現しつつあった複雑な政治状況の中で、高度に適応力があり柔軟であることを証明した。
同教会のファシスト統治期間における歴史を考えてみよ。
1929年に法王庁とイタリアはラテラン条約(Lateran Treaty)<(注14)>に調印し、同教会とイタリア国との間の長年の反目に終止符が打たれた。
(注14)厳密に言うと、ラテラン諸条約(Lateran Pacts of 1929=Lateran Accords)のうちの一つで、バチカン市国に完全な主権を認めたものを指すが、ここでは、イタリア国とカトリック教会との関係を定めたコンコルダート(concordat)、及びイタリア国とカトリック教会との財務協定(financial convention)、の三つの総称として用いているようだ。
(事実関係について、下掲を参照した。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lateran_Treaty
この和解条約のまさに第一条において、イタリアはカトリック聖使徒(Apostolic)ローマ教を唯一の国家宗教として認めた。
戦前、戦中、及び戦後の欧州のスペクトラム全般における諸事件の進展における、この条約の重要性はどれだけ誇張しても誇張しきれない。
ジャーナリストのジョン・コーンウェル(John Cornwell)<(注15)>は、イタリア・コンコルダート(Italian Concordat)(ラテラン条約)は、1933年のドイツ・コンコルダート(Reich Concordat)<(注16)>・・ヒットラーと枢機卿たる<法王庁>国務長官エウゲニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)(後のピオ12世)との長引いた角突き合いの後に取引が成立した・・を予示したことを示唆する。
(注15)1940年~。イギリスのジャーナリスト・著述家。カトリック教徒。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Cornwell_(writer)
(注16)Reichskonkordat。ドイツ内におけるカトリック教会の地位を定めた。法王ピオ11世の代理としてパチェッリが、ドイツのヒンデンブルグ大統領の代理として副首相のフランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen)が調印した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reichskonkordat
イタリア・コンコルダートは、ムッソリーニ体制が、イタリア内のユダヤ人とスラヴ人、及び、イタリアの諸植民地における黒人たるアフリカ人達とを人種差別の対象にした1938年までの間は、少なくとも、同教会とファシスト体制との間の一種の同盟として機能し、両者がほとんどの問題について合意することを可能にした。
実際、ファシスト達とイタリア内の僧侶達との関係は、1943年まではおおむね問題ない関係であり続けたのだ。
ナチスが1943年9月に北部イタリアを統制下に置いた後でさえ、そこで、一般的な反カトリック政策がとられた形跡はない。
北部イタリアでは、SSの将校達と教会の代表達とが、この地域を共産主義者が乗っ取ることへの彼らの共通の恐れにおいて、紐帯をでっちあげた(forged)ことだってあった。
同じことは、オーストリアとドイツにおける全般的状況についてはあてはまらない。
というのは、そこでは、とりわけナチの人種イデオロギーに関し、カトリック教会とナチ体制との間で繰り返し紛争が生じていたからだ。
ナチ体制は、しばしば、公然と司教達を攻撃し、僧侶達を迫害し、彼らを強制収容所に送り、修道院を閉鎖したのだ。
(続く)
ナチの逃走(その3)
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