太田述正コラム#4850(2011.7.5)
<日進月歩の人間科学(続X22)>(2011.9.25公開)
1 始めに
 既にとりあげたことがある話ではあるけれど、狩猟採集社会の人間主義性に関する最新の研究成果がまとめて紹介されている記事があったので、さっそくご紹介したいと思います。
2 狩猟採集社会の人間主義性
 (1)記事からの抜粋
 「東部パラグアイのアチェ(Ache)の狩猟採集者達においては、健康な成人で扶養する子供がいない者は、漁った食糧の70%から90%を、その集団で、より必要としている構成員達に寄付することとされている。
 そして、こういったたくましい食糧供給者自身が病になったり、子供を産んだり、年を取ったりすると、彼らはその種族が助けの手を差し伸べてくれることを期待できる。・・・
 北部タンザニアのハドザ(Hadza)の食糧渉猟者達は、ケチくさい食糧共同享受者が現れると、彼が提供するものを受け取るだけでは話を収めない。
 彼らはそういった輩の手をつかみ・・・もっと供出せよと促し、妥当なところまで供出するに至るまで促し続ける。・・・
 ダーウィン的発想に立つ分析者達は、ホモ・サピエンスは、極端に階統的であることを生来的に好まないとする。
 これは、南アフリカの草原地帯に適した(veldt-ready)チーム形成的ルール・・公正さと相互性への信条、共感能力と衝動抑制、そして我々以外の最も頭の良い霊長目でさえかなわない仕方で協力して働きたいとの意思・・によって生きたところの、我々の、固く編まれた一団としての長き遊牧的前史の遺産なのだ。・・・
 ・・・6歳から7歳までには、子供達は、財の衡平な分割に熱心に配慮するようになるのであって、彼らは皆、お利口さん達(Smarties)やジェリー・ビーン群を算数的に正しい分け前を超えてぶんどろうとする者を罰することを、たとえそれが処罰者達にとって自分達のかけがえのないもの(treats)の一部を犠牲にしなければならないことを意味していたとしても、選ぶようになる。・・・
 ・・・人々を公正に扱ったり、社会の中で正義を実現したりする行為は、進化的ルーツを有する・・・。「それは、我々の生存可能性を高めるのだ」。・・・
 我々の全球的支配への上昇は、まことに逆説的だが、我々が硬い階統制を脇にどけた時に始まった。
 「典型的な霊長目の集団では、最も頑強な個体が意思を貫徹でき、当該集団全員を支配する。・・・チンパンジーはとても頭が良いが、彼らの知性は不信に基づいたものなのだ」。・・・
 「我々は、他のどんな霊長目よりも投げるのが上手だ。・・・だから、我々は遠くから物を投げることができる。とたんに、一番強力な雄であっても、石でもってぶち殺されるという脆弱性が生じた。投石は、我々の最初の適応の一つであった可能性がある」。・・・
 <ただし、狩猟採集社会においても、階統制が全くないわけではない。>
 5つの狩猟採集の人々を分析した結果・・・発見されたのは、<彼らの>所得不平等度は、<現在の>米国で見られるそれの約半分であって、デンマーク<等北欧諸国>における富の分配状況に近いということだった。・・・」
http://www.nytimes.com/2011/07/05/science/05angier.html?_r=1&hpw
(7月5日アクセス)
 (2)コメント
 私の見解を付加し、かつ私の言葉に置き換えて、以上を整理すると次のようになります。
 人類は、階統制(hierarchy)を大幅に弱めることとなる遺伝子の人間主義的変化によって、狩猟採集時代に他の霊長目を含むあらゆる生物の頂点に立ったが、農業時代にチンパンジー的階統制が、階級制という形で復活し、それを正当化する世界宗教が生まれた。
 しかし、人類は、基本的に狩猟採集時代の遺伝子のままの動物であり、工業時代の到来とともに、階統制を再び大幅に弱める方向へのベクトルが働きだし、北欧諸国や日本等、それを実現した社会が出現するに至っている。
 ちなみに、日本は、定住的な狩猟採集時代を、約1万年にわたって経験したがゆえに、同じく定住的であるところの農業時代に入ってからも、他の諸社会に比べて、人間主義的で相対的に階統制が弱い社会であり続けた。
 例えば、江戸時代において、権威と権力と財力の所在が、それぞれ、公家、武家、農工商に分かれるに至ったところである。
2 米国で人間主義的な社会は軍隊くらいなもの?
 「・・・米軍人達、とりわけその上位階級の人々は、部隊の同僚達について、慣例的に「私の兵士達」、「私の海兵達」、「私の水兵達」として語る。
 彼らは、自分達に付託されたところの、ある種の、家族の一員達、彼らの子供達なのだ。
 無条件に面倒を見ることをしないのは、一種の裏切り(perfidy)であり、誠実であることに失敗した、ということになるのだ。
 <全く自分に過失がなく同僚が戦場で死んだ場合の>生存者が抱く罪悪感は、運はゼロサムゲームの一環であるとの無意識の思いの上に積み上がる。
 自分が運がよいということは、他者から運を奪うことだというわけだ。
 罪の意識の苦しみ、そのひどい痛みは、不運の幾ばくかを分かち合う一つの方法なのだ。
 それは、共感的な嘆きの一つの形態なのだ。・・・」
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/07/03/war-and-the-moral-logic-of-survivor-guilt/?hp
(同上)
 米国の特異性は、それが先進諸国中、最も非人間主義的な、従って、階統制の強い社会である点にあります。
 そんな米国社会が、まがりなりにもこれまで維持されてきたのは、かつてはフロンティアが存在したおかげだったわけですが、その後は、アングロサクソン社会共通の慈善へのオブセッションが富者の間で依然として存在していることを別とすれば、上掲記事からも分かるように、先の大戦以降、通過儀礼的に人間主義を注入する組織として機能してきたところの軍隊の存在によるところが大きいと私は考えています。
 この機能が、米軍が全志願制に移行したことに伴い、薄れてきている点が懸念されます。