太田述正コラム#4870(2011.7.15)
<イギリス大衆の先の大戦観(続)(その2)>(2011.10.5公開)
(2)総括
「米国で最も良く知られている英国人の歴史家が、それぞれが実のところ、学術的な歴史の著作に係る異なった学派に属し、どちらも、自分の努力で、恐らくは意図せずして、米国の右派の間で特別な評判を得るに至ったところの、アンドリュー・ロバーツとニール・ファーガソン(Niall Ferguson)<(コラム#125、207~212、738、828、855、880、905、914、967、1053、1202、1433、1436、1469、1492、1507、1691、3129、3379、4123、4207、4209.4313)>であることは不思議だ。
ファーガソンは、この二人の間ではより「現代的」であり、彼は、事実と数字の恐るべき収集者であって、数字の中から何が起こったかについての説明を得ようとし、興味深い「人間の」物語よりも社会政治的趨勢と経済を強調しようとする。
この種の「事実をもって語らせる(fact driven)」歴史書というものは、19世紀末にドイツから輸入されたところの、米国の学術世界においては、普通のことだ。
ただし、ファーガソンは、米国の学術的歴史家達の大部分よりも生き生きとした叙述を行うし、ほとんど信じ難いほど多産でもある。
他方、ロバーツは、歴史家というより伝記作家だが、偉大な男達に関する歴史書、劇的な<歴史的>瞬間に関する歴史書を書くという、上品ぶった(genteel)昔風の伝統に即し、理路整然とした生き生きとした物語を書くことに、より関心を持っている。
彼は、ちょっと反動的な人物達、ないしは、我々が英国で言うところの、保守党的聖像群(Tory icons)、に確かに愛着を抱いている。
彼のソールズベリー(Salisbury)<(コラム#305、3533、3566、3581、4018、4458)>侯爵についての伝記である『ヴィクトリア期の巨人:ソールズベリー』は、ヴィクトリア期における保守党の政治的人物群の中で最も偉大で最も能力の高い者のうちの一人についてであり、彼の同等に見事な、ハリファックス(Halifax)<(コラム#1894、3511、4519、4695)>卿の伝記である『聖なる狐(The Holy Fox)』は、その公的奉仕の長い経歴にもかかわらず、彼のライバルであるウィンストン・チャーチルが一夜にして英国の戦争指導者として出現したことで不作法に陰に追いやられてしまった、よく分からない(puzzling)人物を探索する。
ロバーツの共感(sympathies)は、明確に、ゆるぎない名声がある、保守党の人物達であるところの、ソールズベリー、ハリファックス、ウェリントン(Wellington)<(コラム#2138、3561、3757、4458)>にあるが、彼は一般に言われているところに反し、決して「反動的」な歴史家ではない。
彼は、単に古い流儀の英国の伝統たる「偉大な男」の歴史書・・称賛がつきものの物語として、数字や社会的経済的趨勢群を通して語られる歴史書よりも、手紙、日記、資料、そして人物像を通じて語られるところの歴史書・・<のスタイル>を単に踏襲しているに過ぎない。
ロバーツは、反動というよりエリート主義者(elitist)なのだ。
彼は、良いゴシップを見下すようなことはないし、実際、(私が出版したところの、)彼の『高名なチャーチル主義者達(Eminent Churchillians)』は、ウィットがある鋭利な著作の範例であって、チャーチルを取り巻く比較的マイナーな人物群のうちの幾人かを取り上げることによって、この偉大な男その人についての、より長ったらしい伝記群のかなり多くのものに比べて、最終的にチャーチルに、より光をあてることに成功している。
そう言ったからといって、私は、ロバーツは、例えばサン・シモン(Saint-Simon)<(コラム#3216)(注2)>に比肩すると言っているのではなく、むしろ、彼が、ハリファックスのような、最初はさほど魅力的であるとは思えない人物についての伝記をさえ、示唆に富み、かつ全くもって読みやすいものにするところの、比類なき彼の能力を称賛したいのだ。
(注2)この書評子が、どうしてここでサン・シモンを持ち出したかは良く分からない。サン・シモンは、Claude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simon(1760~1825年)であり、フランスの初期の社会主義理論家でマルクス主義、実証主義、社会学の形成に大きな影響を及ぼした人物。
http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Henri_de_Rouvroy,_comte_de_Saint-Simon
<あなたは>ロバーツの言うことすべてに賛同しないかもしれないが、<あなたが彼の歴史書を>読む際に何頁か飛ばして先を急ぐ気持ちにさせられることは決してない。
というのも、彼は、優雅に、エレガントに、そして絶対的な権威でもって、彼が書く人々について、我々がそう思うことなど到底できなかったにもかかわらず、<彼が書いた歴史書を読んだ後には>極めて興味深く共感できる人々である、と我々に思わせるに至るからであり、これは大した才能だと言わざるをえない。・・・
さて、ニール・ファーガソンとほとんど同じくらいの物凄いペースで働いているロバーツは、重くかつ高度に読みやすい第二次世界大戦についての歴史書を書いたが、彼は、この歴史書を、彼がその対象に向けて駆使する、真剣さと権威、就中、戦争に関する歴史家達の中では稀であるところの公平な思慮(fair-mindedness)を決して軽んじる(diminish)ことなく、持続して物語る天賦の才能(gift)たる明晰さでもって書いた。
なぜなら、一般に、英語による第二次世界大戦の歴史書群は、米国人達によって書かれ、英国のこの戦争での役割を矮小化(downplay)するものと、英国の歴史家達によって書かれ、米国のこの戦争での役割を矮小化する(と同時に、太平洋戦域よりも欧州戦域により分量と関心を向ける)ものとに見事に分かれているからだ。
ロバーツは、両者に多かれ少なかれ、同等の時間をかけることに努力し、成功したが、それに加えて、支那での出来事と東方戦線における戦争についても十分収録することで、この戦争の全体像について、良く均衡のとれた面白く書かれた説明を読者に提供している。・・・
この本には「反動的」な部分はないのであって、この本は、悪漢達が最初の最初から明確に認識できたところの、考えられないコストを伴った必要な(necessary)戦争についての物語であり、「民主主義的(democratic)」という言葉の、全面的な、かつ極めて古い流儀の意味合いにおける歴史書なのだ。・・・」(b)(注3)
(注3)書評子は、マイケル・コーダ(Michael Korda。1933年~)。イギリスの著述家で小説家。オックスフォード大学で歴史学を専攻。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Korda
(続く)
イギリス大衆の先の大戦観(続)(その2)
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