太田述正コラム#4874(2011.7.17)
<イギリス大衆の先の大戦観(続)(その4)>(2011.10.7公開)
3 勝敗が決まった決定的要因
(1)ナチスのイデオロギー
ナチスの人種主義に由来する反ユダヤ主義と反スラブ主義の必然的帰結として、その前者がユダヤ人科学者の連合国側への流出を招き、かつユダヤ人絶滅に係る資源が戦争遂行のための資源を減殺したこと、また、その後者が、対ソ開戦への固執をもたらし、かつソ連内外のスラブ人の虐殺や搾取をもたらして彼らの非協力・反抗を招いたこと、は、正シリーズで詳しくとりあげたので、ここでは繰り返しません。
(2)ヒットラーの拙劣な軍事指導?
「・・・1944年8月2日、白ロシア(Belorussia)のドイツ中央軍集団(German Army Group Centre)<(注4)>の完全な潰滅の直後に、ウィンストン・チャーチルは英下院で、アドルフ・ヒットラーを、その第一次世界大戦の時の最高階級を持ち出してあざけった。
(注4)Heeresgruppe Mitte。ソ連侵攻を担当した軍集団。
http://en.wikipedia.org/wiki/Army_Group_Centre
軍集団は、帝国陸軍の方面軍、陸上自衛隊の方面隊に相当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D
「ロシアの成功は、若干なりとも、ヒットラー伍長の戦略によって助けられたものだ」と。
チャーチルは、「軍事音痴(idoit)ですら、彼の様々な行動に若干の欠陥を見出すことは困難ではない」と嘲弄した。・・・」(d)
しかし、この点については、ロバーツ自身が、別の論文で、以下のように論じており、このようなチャーチルのヒットラー評価は間違っているとしています。
「・・・疑いもなく、ヒットラーの二つの鉄十字章(Iron Cross)<(注5)>は、彼の<部下の>将軍達に<伍する>若干の当事者適格(standing)を彼に与えたことだろう。
(注5)ナポレオン戦争の最中の1813年、プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III)が授与した軍事勲章で、ドイツ帝国に引き継がれた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Iron_Cross
しかし、彼自身の軍事に関する自信は並外れていた。
これは、一つには、歩兵の優位の感覚から来ていた可能性がある。
第一次世界大戦(the Great War)の戦闘において、矢面に立ったのは歩兵だった。
国防軍最高司令部(OKW)総長(Chief of Staff of the High Command of the Armed Forces)<(注6)>のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)<(注7)>と彼の補佐たる国防軍最高司令部作戦部長(Chief of the Wehrmacht operations staff)のアルフレッド・ヨードル(Alfred Jodl)<(注8)>は、どちらも砲兵であったし、第一次世界大戦(the conflict)では参謀だった。
(注6)国防軍最高司令部=Oberkommando der Wehrmachtは、「は、国防軍最高指揮権者である大統領が国防大臣に直接指揮を負託する1922年来の仕組みを廃し、最高指揮権者であるヒトラー自らが国防軍を直接指揮するために1938年に創設された国防軍の組織」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)
(注7)1882~1946年。最終階級は元帥。「増長著しいナチスの突撃隊(SA)をいまいましくさえ思い、アドルフ・ヒトラーを「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた<が>・・・徐々にヒトラーに心酔するようになった。ただしナチ党には最後まで入党していない。」ニュルンベルグ裁判で戦犯として絞首刑。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%AB
(注8)1890~1946年。最終階級は上級大将。ニュルンベルグ裁判で戦犯として絞首刑。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB
つまり、(カイテルは負傷こそしたが、)彼らが関わった戦闘は間接的なものだった。
ポーランド侵攻を行った第10軍(10th Army)司令長官のヴァルター・フォン・ライシュナウ(Walther von Reichenau)元帥<(注9)>、第4軍の司令長官であったヴァルター・フォン・ブラウシッチュ(Walther von Brauchitsch)元帥<(注10)>とハンス・フォン・クルーゲ(Hans von Kluge)元帥<(注11)>もまた砲兵であったし、その他の枢要な軍司令長官であったパウル・フォン・クライスト(Paul von Kleist)大将<(注12)>とエリッヒ・マンシュタイン(Erich Manstein)大将<(注13)>は、騎兵だった。(もっとも、マンシュタインも負傷はした。)
(注9)1884~1942年。最終階級は元帥。病死。反ユダヤ人でユダヤ人とボルシェヴィキを同一視し、アジアを欧州への脅威視していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walther_von_Reichenau
(注10)1881~1948年。最終階級は元帥。モスクワ占領に失敗。1941年に退役。病死。
http://en.wikipedia.org/wiki/Walther_von_Brauchitsch
(注11)1882~1944年。最終階級は元帥。反ヒットラー感情を抱いており、ヒットラー暗殺未遂事件が起こった後、疑われていると思い自殺。
http://en.wikipedia.org/wiki/G%C3%BCnther_von_Kluge
(注12)1881~1954年。最終階級は元帥。ソ連内で隷下部隊に退却を命じたために1944年に退役。戦後ソ連に投獄され病死。
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Ludwig_Ewald_von_Kleist
(注13)1887~1973年。最終階級は元帥。ヒットラーと作戦上の衝突が絶えず、1944年に退役。
http://en.wikipedia.org/wiki/Erich_von_Manstein
大将達のうちの幾ばくか、例えばハインツ・グーデリアン(Heinz Guderian)<(注14)>は通信(Signals)であったし、例えばマキシミリアン・フォン・ヴァイヒス(Maximilian von Weichs)<(注15)>は同大戦の大部分を参謀本部で送った。
(注14)1888~1954年。最終階級は大将。機甲戦の専門家。やはり、ヒットラーと作戦上の衝突が絶えず、1945年に(敗戦前に)退役。戦後訴追されることがなかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_Guderian
(注15)1881~1954年。最終階級は元帥。戦後ニュルンベルグ裁判に訴追されたが、病気で判決を免れた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_von_Weichs
このようなことから、元中佐のウィンストン・チャーチルが第一次世界大戦の塹壕群の中でのヒットラーの低い階級からヒットラー「伍長」とあざけったけれど、総統は、先の紛争(大戦)において彼よりも階級が高かった兵士達と直接接する際に劣等感を持っていたとは思えない。
時には言葉で命令や情報を伝える大隊の伝令であったヒットラーは、戦術について大いに学んだことだろう。
ヒットラーが<オーストリア人ではなく>ドイツ人であったならば、彼が将校に昇格していた可能性がある。
このことを自身が自覚していて、彼は、書類的問題から自分が大隊を指揮することにならなかっただけだと信じて第一次世界大戦から復員した可能性は大いにある。
大将達の多くは1920年代を自由軍団(Freikorps)<(注16)>やヴェルサイユ条約下で許されていた小さな「条約」陸軍<(注17)>で送った。
(注16)第一次世界大戦のドイツ復員兵が入隊した志願兵部隊ないし準軍事(paramilitary)部隊。
http://en.wikipedia.org/wiki/Freikorps
(注17)ヴェルサイユ条約によって、ドイツは、「下記の軍事制限を甘受していた。
陸軍兵力を10万人に制限(戦前の平時には78個師団を擁していた)
戦争画策の本拠として陸軍参謀本部を廃止
戦車の保有禁止
義務兵役制度の廃止
海軍も沿岸警備以外は禁止、潜水艦・航空母艦の保有禁止、艦艇の備砲と排水量の制限
軍用機の開発・保有禁止」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%86%8D%E8%BB%8D%E5%82%99%E5%AE%A3%E8%A8%80
この間、彼らは参謀業務、訓練、研究以上のことはほとんどしておらず、ヒットラーが政治の場面に突然闖入してきた時までの間に彼らがどんな名目的な階級に昇格するに至っていたにせよ、ヒットラーに大いなる感銘を与えることはなかったのではなかろうか。・・・」(j)
(続く)
イギリス大衆の先の大戦観(続)(その4)
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