太田述正コラム#4888(2011.7.24)
<映画評論26:トゥモロー・ワールド(その3)>(2011.10.14公開)
「<この映画の中で、ある難民の>女性が、自分の息子を腕の中に抱いてむせびないている場面(shot)がある。
これは、<(旧ユーゴスラヴィア内戦時の)>バルカンである女性が自分の息子の遺体をかき抱いて泣いている本物の写真を思い起こさせる(be a reference to)ものだ。
そして、その写真家がその写真を撮った時、それがイエスの亡きがらをかき抱いている聖母マリアのミケランジェロ(Michelangelo)による彫刻、ピエタ(La Pieta)<(注4)、を思い起こしていたことは全くもって明白だ。
(注4)ローマのサンピエトロ寺院内にある、余りにも有名な彫刻だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF
よって、我々は、バルカンで実際に起こった何かを思い起こさせられるわけだが、それ自体が、ミケランジェロの彫刻を思い起こさせるわけだ。
<映画の>始めの方でダビデ(David)像<(注5)>の彫刻も用いられており、これもミケランジェロ作だが、我々はキリスト生誕(Nativity)全体をもちろん思い起こさせられるわけだ。・・・
(注5)ピエタと並ぶミケランジェロの畢生の名作。「1873年にこの像はフィレンツェのアカデミア美術館に移動されることとなった。もともとダビデ像が置かれていた市庁舎前には1910年から複製が置かれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E5%83%8F_(%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD)
なお、「ダビデ・・・は古代イスラエルの王(在位:前1000年 – 前961年頃)。ダヴィドとも。羊飼いから身をおこして初代のイスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのち王位を継承するとペリシテ人を撃破して要害の地イェルサレムに都を置いて民族の統一を成し遂げた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87
<もう少し続けよう。>
「魚達(Fishes)」<(注6)>という名前の英国のテロリスト集団が難民達の権利を守る。
(注6)「初期のキリスト教徒<は、>・・・弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いた<ものを>・・・隠れシンボルとして用いた。・・・<これは、>聖書の寓話に由来するという節もある。
・漁師だったペテロが「これからは魚でなく人間を取る漁師になるのだ」とイエスに諭され弟子になる(ルカ 5章10節)
・二匹の魚と五つのパンをイエスが奇跡をおこして5000人に食べさせたという「パンと魚の奇跡」 (ヨハネ 6章5~13節)
・神殿税を請求されて困っているペテロに、釣りに行けば捕まえた魚の口に税金分の4ドラクマ銀貨が入っているだろうとイエスが語った箇所(マタイ 17章27節。ガリラヤ湖畔では今もティラピアを「聖ペテロの魚(St. Peter’s Fish)」と呼ぶ。)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9
<映画の>米国でのクリスマスの日における封切りについて、批評家達は、<主人公>と<妊娠した女性>という<二人の>登場人物をヨセフ(Joseph)と<聖母>マリア(Mary)<夫妻>とを比べ、この映画は「現代のイエス生誕物語」であると呼んだ。
この<女性>の妊娠は、<主人公>に農家の納屋(barn)の中で伝えられるが、これはイエス生誕の時の飼い葉桶を示唆しているし、<主人公>が<この女性>に胎児の父親は誰だと尋ねると、彼女は、冗談めかして自分は処女よと言ってのけるし、他の登場人物達が<彼女>とその赤ん坊を発見した時、彼らは「イエス・キリスト」と言ったり十字を切ったりする形で反応する。
また、(神性を持った存在は数多あれど、)大天使ガブリエル<(注7)>がバスの光景の所で念じられる(invoked)。
(注7)「旧約聖書『ダニエル書』にその名があらわれる天使。ユダヤ教からキリスト教、イスラム教へと引き継がれ、キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人であると考えられている(ユダヤ教ではウリエルを入れて四大天使)。・・・ガブリエルはキリスト教の伝統の中で「神のメッセンジャー」という役割を担うことが多い。たとえば『ルカによる福音書』では祭司ザカリアスのもとにあらわれて洗礼者ヨハネの誕生をつげ、マリアのもとに現れてイエス・キリストの誕生を告げる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB
更にまた、エジプト人の女性が<主人公と妊娠した女性>を助けるのは、<モーゼ率いるイスラエルの民の>エジプトからの脱出への言及(reference)だ。・・・
つまり、腹が一杯になるほど、<そのうちの多くがキリスト教がらみだが、我々は、>ありとあらゆるものを思い起こさせられたり相互参照させられたりするのだ。・・・
<ただし、>ウェルギリウス(Virgil)の『アエネーイス(Aeneid)』<(コラム#3926)>、ダンテ(Dante)の『神曲(Divine Comedy)』<(コラム#726、1186)>、そしてチョーサー(Chaucer)の『カンタベリー物語』<(コラム#54、3844)>と同じように、<この映画>『トゥモロー・ワールド』の中での<主人公らの>旅の核心は、目的地(terminus)それ自体よりも道程において顕現される事柄の中に存するのだ。
<主人公>の<イギリス>南岸への英雄的な旅は、彼を「絶望から希望」へと連れて行ってくれるところの、彼の「自己認識(self-awareness)」への個人的希求を鏡に映しだす。
<さて、この映画の>・・・P.D. ジェームスの<原作>本の題名・・人間の子供達(The Children of Men)・・は、聖書の記述からの一節(ジェームス英国王版の聖書の詩篇90(89):3の「汝は人間を破滅へと追いやった。そして神はこうおっしゃった。戻れ、汝ら人間の子供達よ(Thou turnest man to destruction; and sayest, Return, ye children of men.))由来のカトリック的寓喩(allegory)であるという。
ジェームスは、彼女のこの物語は、「キリスト教寓話(fable)」であると<cで>指摘している・・・。・・・
<しかし、キリスト教がらみの話がいやというほど出てくるにもかかわらず、この映画は、キリスト教寓話には全くなっていない。>
この原典との乖離に対し、<評論家の中には>・・・不毛なニヒリズムがキリスト教によって克服されるという、P.D. ジェームスの寓話から宗教が取り去られたとして、これを野蛮な行為(vandalism)であると批判する者もいる。」
(続く)
映画評論26:トゥモロー・ワールド(その3)
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